11月6日 コロサイ4章15節、16節

「拡散希望」

 自分の名前が呼ばれるのは嬉しいものです。手紙の中でヌンパも名前で呼びかけられています。ラオデキヤ教会のメンバーの女性です。教会と言っても当時は会堂などありません。家に集まって礼拝が捧げられたのです。彼女は家庭を開放して主に仕えていたのでしょう。それにしても不思議な点があるのです。メンバーのうち、他の者ではなく、どうして彼女だけなのでしょうか。なぜヌンパだけが名指しで呼ばれているのでしょうか。

 

 あるいは、こういう事情も考えられるのです。ラオデキヤ教会はおそらくエパフラスの郷里伝道で渓谷一帯に福音が伝えられた結果、生まれた教会のひとつです。しかし教会は一種の危機にありました。この付近に猛威を振るった間違った教えや実践がコロサイからラオデキヤまで飲み込んでいく。多くの信仰者も足をとられていった。そういう中、ヌンパだけはなんとか正しい信仰を守り抜こうと福音に立ち続けたようにも読めるのです。

 

 いつの時代も、正しいのは多数派であるとは限りません。主は少数の者を用いてみわざをあらわしてこられました。ある意味では危機のない教会などどこにもない。問題のない教会などひとつもない。けれども、主はこの時のためにわたしを選ばれていたのかという選びの信仰に立つ時、あなたもヌンパになれます。自分ごときがしゃしゃり出なくても誰かが、と言ってはいけない。主よ、わたしを用いて下さい。わたしも当事者です。わたしも教会です。

 

 ところでコロサイ教会はこの手紙を受け取り読み終えた後、手紙はどうなっていくのか気になるところです。実はこの手紙は隣のラオデキヤ教会に渡され、そこでも朗読されることが期待されているのです。それだけではありません。実はラオデキヤ教会あてに書かれた手紙もあったようで、コロサイ教会にも回されて、読み上げられることが求められているのです。当時の手紙は教会から別の教会へと回し読みされていく習慣があったわけです。

 

 SNS風に言うと、シェア希望といったところでしょうか。拡散希望なのです。大切なことが教えられる気がします。手紙が回し読みされていることからもわかる通り、教会を巡る問題には地域を超えてそれなりの共通点があるのです。わが教会の問題は特有の課題なので、他の教会とは関係ないと割り切れる話ではないのです。自分たちにも深くかかわる話として深く信仰をもって受け止めるべき内容なのです。視野が狭くなってはいけません。

 

 私たちは勘違いしやすい。自分の抱える問題は特殊で、解決は困難だと。そんなことはありません。あなたの問題は、多かれ少なかれ、今までも多くの信仰者がぶつかってきたことです。誰かが信仰をもって取り組み、乗り越えてきたことなのです。簡単にあきらめる必要はどこにもない。解決はただ福音によって主から。人の問題の根が罪にあるなら、解決はただ救い主なる主から来るのは確かです。福音はいつも拡散希望。ただ希望の源なる主を仰げ。