11月13日 コロサイ4章17節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「主にあって受けた」

 励ましが必要とされる状況が誰にもあるものです。アルキポもここでパウロから励ましを受けています。どういう人物か、詳しくはわかりません。ただ、ピレモンの手紙ではパウロたちの戦友と紹介されています。おそらくコロサイ教会で中心的な役割を担った信仰者だったと思われます。教会の開拓者であったエパフラスが、一時的にコロサイを離れることになってしまいました。彼はエパフラスがいなくなった後の教会を支えたのでしょう。

 

 私たちの信仰生活にも思い当たります。頼りにしていた人物がいきなり目の前から姿を消したりするものです。戸惑う暇もなく、なりゆきで自分が抜擢される場合があったりするものです。神に選ばれて立たされると言ったほうがいいでしょう。つらく、泣き言もありそうな状況の中で、それでも、いざという時に踏ん張れるのは、自分は神に選ばれてこのつとめを与えられているとの強い自覚からではないのでしょうか。それ以外の根拠はありません。

 

 そのアルキポにパウロは受けたつとめをよく果たせと伝えます。何があったかは不明です。想像がゆるされるなら、あるいは彼は教会でのあまりにも重い責任につぶれそうになっていたのかもしれません。もしかしたら、何か信仰の迷いが生じていたとも考えられます。いずれにせよ、与えられた奉仕を続けることに困難を覚えていた。自分なりにがんばってきたつもりだが、もうこれ以上無理だ。彼のそのような心の叫びが聞こえてくるかのようです。

 

 私たちもこれ以上、奉仕ができないと思う場面があります。力量不足だ。忙しすぎる。現実を知らなかった。自分ひとりでがんばって空回りしている気になる。理由はそれぞれある。ところが神様は、あなたができないなら、だれか代わりの者にとは決して仰らないのです。あなたに与えた召しと賜物は動かないとばかりに、どこまでもあなたにこだわりなさいます。他の者ではない。これはあなたにやって欲しいのだと再び立ち上がらせてくださいます。

 

 どうやって立ち直るのでしょうか。鍵があるとするならば、主にあってという厳然たる事実によって、です。私たちが好き勝手に勝手にやり始めたことなどではないのです。主にあって、です。主がこれをせよと名指しで自分を呼んでくださった。主に呼ばれた以上、勝手にやめるわけにはいかないでしょう。もっと言うと主が呼ばれた以上、これを成し遂げて下さるのは究極的には主です。私たちは主の御霊に動かされる器にすぎず、手足にすぎません。

 

 自分の力でなんとかやり抜こうとすればするほど、うまくいきません。けれども、わたしではない、なさるのは主だという原則に気づくとき、明らかに悟ります。主が臨むなら、自分の力以上の力で奉仕に当たれるようになる。自分の知恵以上の知恵で切り抜けられるようになる。主にあるというリアリティーがどれほど力強いことか、私たちはすでに体験済みではなかったはずですか。主にあって受けたつとめ。あなたにとってそれはなんですか。