11月20日 コロサイ4章18節

 こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「福音」

コロサイ書もいよいよ手紙の最後の部分を読むことになりました。パウロはここで自筆のサインを手紙に残しています。当時の手紙は本人が口述したものを筆記者が聞き書きして自由に書いていったものだからです。おそらく本文はエパフラスがかたわらで聞き書きしたものなのでしょう。彼は適任でしょう。コロサイ教会の問題もメンバーもよく知り抜いているわけですから。エパフラスが書き留めた内容を、最後だけはパウロが自筆でサインをしていることになります。いわばこの手紙は共作です。

 

 信仰にとって大切なのは一致なのです。もちろんひとりひとり個性も性格も違います。何も没個性的に画一的に生きよというのではありません。しかし、ひとつの御霊が教会に働く以上、確かにわたしとあの人の間に違い以上に不思議に一致と調和が生まれてくるものです。考えてみるとコロサイ教会の問題は一種の霊的エリート主義による分裂や足並みの乱れでした。しかし同じ聖霊に預かり、同じ福音に生きる者の真実の一致の姿がここにはあります。

 

 このようにパウロが徹頭徹尾手紙で伝えたかったのは主の福音です。それなら、最後にわたしが鎖につながれていることを覚えてほしいと伝えるのも福音に関係があるに違いありません。少なくとも、この期に及んで、ただの泣き言や愚痴をのべているかのように読むべきではない。福音に生きるリアリティー。喜びも含めて、苦しみも含めてすべてこの身をもって明らかにしながら、同じ福音に生きる者たちを励ましたい思いがにじみ出ているのです。

 

 私たちどこかで勘違いを起こしがちなのです。自分の思い通りに順調に進めば御心、つらいことにぶつかるとこれは御心ではなかったと。果たしてそうなのでしょうか。福音に生きるとは実は主のために苦しむことも織り込み済みだと最初からわかっていたはずではありませんか。苦しみを避けて、福音に生きるなど到底できることではない。その苦しみを担わない以上、決して味わうことのできない喜びもあると信じるわけにはいきませんか。

 

 ならば、この苦しみにただ歯を食いしばって耐えていますということではありません。福音に生きる者に約束されているもの。それは神の恵みなのです。神の善意と言ってもいいし、神の好意と言いかえてもいい。だからこそパウロはこの事実に気づいて欲しいとばかりに手紙の結びに神の恵みの事実を祈らずにはおれないのです。単なるあいさつなどではありません。それ以上に驚くばかりの主の恵みに日々圧倒されるのが信仰生活なのです。

 

 私たちも逆風が吹く中で思いもよらない神の善意に出会うことがあります。思いがけない主からの好意に励まされます。これは確かに主だと深く思わずにはおれない瞬間。なぜ主はわたしにここまでして下さるのだろう。なかなか答えの出ないわからないことではあります。しかし、わたしの歩みは見えない主の手に支えられている。ただありがたく、感謝してこの恵みを素直に真正面から受け止めながら、コロサイ書を読み終わることにしましょうか。