11月27日 ミカ5章1節―4節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「ベツレヘムよ」

アドベントクランツに最初の火が灯りました。光は暗闇の中でほど、輝くものです。預言者ミカの時代のエルサレムもまさに暗闇の中にたたずんでいます。大国アッシリアからの圧力が重くのしかかっているのです。それはまるでびくともしない壁のように目の前に立ちふさがっています。絶体絶命の国家の危機と言ってもいいでしょう。実際、イスラエルの王の頬が敵のつえで撃たれるという、みじめな屈辱さえ受けているのです。

 

しかし、遠い昔の歴史の話なのでしょうか。これが私たちを取り囲む現実であるかもしれません。横暴な者のふるまいはいつの世の中にもあるものです。なぜ自分がこんなつらい目に合わないといけないのか。理不尽な仕打ちによって傷つけられることは今でもあります。文明は発達するでしょう。時代は進むでしょう。しかし、闇は深まったままです。それだけでは人間を取り囲む絶望的なまでの罪の暗闇は取り除かれることがないのです。

 

しかし、神の励ましの声が聞こえてきます。この状況の中からイスラエルを治める者がやがて必ず現れる。だから希望を持ちなさい。マタイ福音書に引用された有名な聖句です。その人物がメシヤであると表現されているわけではありません。ただ神から遣わされる者であるのは確かです。注意すべきなのは、それが小さい村ベツレヘムから起こる点です。当時は他にもベツレヘムがありましたら、区別する意味でベツレヘムエフラタと呼ばれています。

 

小さいのですから見向きもされていないということでしょう。注目も浴びていないのです。見過ごされているのです。しかし、いつの時代も神のわざは世間が注目もしない世の中の片隅から起こり始めます。虐げられた者や差別に苦しめられた者。思いもよらない者を用い、考えもできない方法で、主はご自分の救済の計画を始められ、成し遂げられるのです。だとすれば、教会が小さいことが主にとって一体、なんの妨げになるでしょうか。

 

ただ、主の救いのわざが起きるのは、今すぐにというわけではありません。時間がかかるのです。産婦から赤ん坊が産まれるまでには最低でも十か月以上は必要なように。そこには痛みも通らないといけないように。主はご計画にも時の流れを使われます。その時が訪れるまでは、イスラエルは困難に渡される。つまり、主の約束を仰ぎながら、解放の時がやってくるまでじっと待ち望む姿勢が求められていると言ってもいいでしょう。

 

しかも、この人物の解放の働きは独特です。神の権威によって平和を実現するわけです。その正義の実行は決して軍事力や経済力といった人間的な力の行使によるものではないからです。だからこそ彼が訪れる道を備えるには、イスラエルは馬や戦車といったありとあらゆる軍事力を手放す必要があるわけです。それは非常に困難な選択です。神に信頼するとは、時に今握りしめているものを手放さないといけないということでもあるわけです。

 

不条理な横暴に苦しむ者は決して絶望してはいけません。やられたことに対して復讐しようとしてもいけない。どうせ状況はこのままだと自暴自棄に陥って投げやりになってもいけない。どんなに小さい存在をも神はお見捨てになることはないのですから。ならば、まずは自分の心を見つめ直すところから始めてもいい。ただ喜びをもって神の正義が貫かれる時を待ち望むわけにはいきませんか。アドベント。待ち望みから教会暦は始まります。