12月4日 イザヤ40章1節―8節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「声」

 アドベントクランツに2つ目の火が灯りました。クラシック音楽ファンならこの季節、ヘンデルの「メサイア」を思い出すかもしれません。メサイヤはイザヤ書40章の言葉から幕が開きます。ここでは神の語りかけは慰めから始まります。どうにもならない現実を仕方ないと現状肯定するのが慰めではありません。生ける神の慰めは現実を変える力です。自分はもう終わりだと思い込み、将来を失った民にさえ解き放たれる日をもたらす力となるのです。

 

 一言でいうと新しい時が始まっているのです。どうせ自分は何をやっても無駄なのだとあきらめている場合ではないのでしょう。自分を取り巻く状況は何も変わらないと決めつけることでもありません。私たちがすることは、ただ神がわたしになさろうとされることを時に驚きながら、時に畏れと喜びをもって信仰をもって受け入れることだけなのです。そうです。どれほどの罪に苦しんでいたとしても、主があなたの現実をも解放して下さいます。

 

 新しい時代には荒れ野に真っ直ぐな道が通ります。洗礼者ヨハネの引用で知られる聖句ですが、ここではバビロンからエルサレムまで実に1000キロ以上の真っ直ぐな道が作られるのです。どんな低い谷も埋められ、どんなに高い丘も削られる。バビロンからの解放とエルサレムへの帰還が示されています。実際に道ができるというよりも、主の解放を妨げる困難など何もないとの力強い宣言です。主が先頭に立って民の帰還を導いて下さいます。

 

 これは礼拝への道です。福音の進む道と言い換えてもいいかもしれません。福音を妨げるものなどどこにも存在しない。どんなに道がないように見える荒れ野でも主は必ず救いを実現されます。私たちも実感できるはずです。実際、私たちもかつては福音とはほど遠い存在だったはずです。しかし、主は私たちと出会い、福音によってとらえて下さいました。私たちを暗闇から光の道へと連れ出し、礼拝に連なる者へと変えて下さったではありませんか。

 

 何によってそれはわかるのでしょうか。神の言葉によって、です。とこしえに変わることがない神の約束が語られることによってです。私たちのよって立つべき根拠は神の言葉にしかないのです。それ以外の人の営みは草や花のように、枯れていったりしぼんでいったりするものに過ぎません。どんな栄誉を極めた権力であろうと、時代を築いた巨大な国家であろうとやがては終焉を迎える相対的なものにすぎません。そこに希望など置けないのです。

 

 私たちは知っています。永遠の神の言葉が人となられた日がクリスマスだということを。この永遠の言葉によって生かされるのだということを。この言葉に動かされ、この言葉に立ち上がらされ、私たちは確信をもって希望を語ることができるのです。主の慰めをいただいた者なのですから。主の栄光をこの目で見たのですから。主の呼びかけをこの耳で聞いたのですから。ヨハネのように私たちもなれます。いかなる荒れ野の中でも主を指し示す声に。