12月18日 ルカ1章57節―66節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「君の名は」

君の名はというアニメ映画が今年大ヒットしました。クリスマスの物語も名前にこだわります。話はエリサベツに赤ん坊が生まれたところから始まります。子どもを諦めていた老祭司夫妻に子が生まれた。神の奇跡です。ここに決定的に新しいことが起きている。親族や地域の住民は、当時の習わしに従って、生まれて8日目に幼子に割礼をほどこします。父の名にちなんでザカリヤと名付けようとします。しかし母親がそれに毅然とノーと言うのです。

 

女性の地位が低かった時代なのです。母親の声は周囲の大きい声にかき消されそうな小さな声です。親族の長老の意見が物を言うのに。しかし、その小さな存在のどこからこんな毅然とした態度が出てくるのでしょう。前例にないことかもしれない。慣習にはないことには違いない。しかし、命名はわたし個人の決断なのではない。神の意志なのだという確信に貫かれる時、神に支えられるようにして、ゆずれないものを通そうとする力が与えられます。

 

私たちの声にしても決して大きな声とは言えません。大多数の中にあっては無視されることの多い小さい声に過ぎない。有力な者でもなければ、識者でもない。たとえ、そういう声であろうと神は黙殺しようとはなさいません。言いたいことも言えない苦しみの中であったとしても、神はあなたの声を取り上げて下さる。支えて下さる。あなたの声が大切なのだと。普通の人の普通の声を用いて、神はいつの時代も決定的に新しいことを起こされます。

 

頑としてゆずらない母親に困ったのか、人々は父親に尋ねます。口がきけず、耳も聞こえなくなっていたようにも見える父は、書板に書くのです。「その名はヨハネ」と。なぜなら天使に告げられていたのです。子をヨハネと名付けよと。名前などどうでもいいと言ってはいけません。名付けとはこの子が将来どう生きていくのかを神が明らかにする行為でもある。神のいつくしみという名の通り、やがて彼は主の恵みを証しすることになりましょう。

 

親の最初のつとめは命名です。この子にはこう育って欲しい。親なりの願いが名前には込められています。成長したらしたで親は心配します。保育園で友だちと仲良くやれているのだろうか。学校生活はどうなのだろうか。子は親の思い通りには生きないものです。しかし、必要以上の心配はやめてもいい。この子には神がお決めになった人生がある。使命がある。ただ神の願いがこの子の上に果たされますように。そのことを祈りましょうか。

 

このことを示したとたん、ザカリヤの身に不思議なことが起こります。今まで閉ざされていた口がいきなりほどけ、神を賛美し始めるのです。ラテン語聖書の最初の言葉をとって伝統的にベネディクトゥスと呼ばれる賛美です。神をほめたたえる姿を見た人々はおそれをなし、心に留めたとあります。何が起こっているかははっきりとはわからない。けれど何かが始まっている。少なくともザカリヤの証しは人々の心に刻みつけられたことでしょう。

 

私たちの神様への賛美は必ず聞く者の心に残ります。私たちの真実な証しは間違いなく誰かの記憶に刻まれることになるのです。主の手が臨むところでは、見過ごしにはできないとばかりになんらかの反応が相手に引き起こされざるを得ません。福音の喜びはわたしの中だけで完結などしないのです。飛び火していくのです。絶対に周りの人々を次から次へとを決定的な新しさへと巻き込んでいきます。これがクリスマスの求心力なのです。