12月25日 マタイ1章18節―25節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「神と出会う」

 クリぼっちという言葉があります。クリスマスをひとりぼっちで過ごさないといけない姿です。ヨセフがまさにそうです。嬉しくも楽しくもない。悲しみが募るだけの日々。無理もありません。結納を交わし、結婚を約束した相手が自分の身に覚えのないところで妊娠したのですから。自分以外の男性と間違いを犯したのか。あるいはローマの兵隊に乱暴を働かれたのか。幸せな家庭を築き上げたい若者らしい未来予想図が一気に崩されていきます。

 

 実はこれは私たちの姿でもあります。普通に平凡につつましやかに生きてきた者が、ある日突然思いもよらない出来事に巻き込まれてしまう。当たり前の日常が不意に奪われ、自分なりに描いてきた将来がいきなり閉ざされてしまう。このような苦悩や混乱や痛みはおそらく誰の人生にもある程度当てはまることでもありましょう。一体、自分が何をしたというのかと叫びたくもなる。確かに人生には思い通りにはいかない理不尽さが満ちています。

 

 ところで彼は正しい人だったとあります。神の律法に忠実に生きる人でした。正しい者としての彼の決断は婚約をひそかに解消することでした。彼女のことが公になることを好まない。彼女の不貞を暴き立てて糾弾したくもない。世間の目に曝したくもない。自分が身を引き、孤独に甘んじればいい。彼の正しさとは正義感に任せて相手を責めるようなものではありません。むしろ、相手のことを精一杯に考えた上での苦渋の選択であったと言えます。

 

 私たちの人生にも巡ってきます。ぎりぎりのところで究極の決断をする時が。しかも誰にも相談ができないことを。ひとり悩み、迷い、傷つきながら、板挟みの中で自分にできる限りの精一杯の道を選ばないといけない経験はないでしょうか。誠実に生きようとする人だからこそ悩みも深まるのでしょう。相手を思うがゆえに痛み、相手の立場を重んじるがゆえにひとり痛みにも耐えて。自分なりにこれが一番正しいと決めた道を選ぼうとするのです。

 

 おそらくマリアは婚約者のヨセフには自分の身に起きたことを相談したものと思われます。悩みは誰かに打ち明けることで多少は負担が軽くなるものです。しかし打ち明けられた側にとってはどうなのでしょう。かえって重苦しい思いを抱え込むことになるかもしれない。知らない方がよかった話。聞かない方がよかった現実。眠れない夜を過ごすヨセフの苦悶が心に迫ってくるようです。彼にしてみれば悩みぬいた末、出した答えだったのです。

 

 けれども、その自分なりの決心をみ使いの夢でのお告げによって神が止めるのです。ヨセフよ、安心して妻を迎えなさい。彼女の不貞なのではない。お腹の子は聖霊による。あなたがこの子の養父となるのですと。ヨセフはこのようにして神と出会います。多くの場合、神との出会いはこういうものです。喜びの絶頂で神と出会うと言うよりもむしろ人知れず悩んだ道の先で。ひとり苦しみ抜いたその向こうで。誰にも言えず傷ついてきた、迷いの中で。

 

 もしもあなたが重苦しい問題や人生の困難に逃げることなく、誠実に向かい合ってきたなら。悩みに耐えて、それゆえに誰にも言えず深く傷ついてきたとするならば。クリスマスはそういう人のためにあります。ひとり悩み暗闇を歩む先に、恵み深い神があなたのために慰めとともに出会って下さるのです。誰もいないところで一対一で密かに神は個人的に出会って下さるでしょう。インマヌエル。神が共に。あなたは決して孤独ではありません。