1月1日 第二ペテロ3章3~13節

  「待ち望め」

  もう幾つ寝るとお正月。唱歌にもあるように新年を今か今かと待つ気持ちは誰でも思い当たるでしょう。Ⅱペテロが書かれた時代には待てない人がいました。主の再臨が待てないのです。それどころか再臨を待ち望む人たちをあざけり出す。なるほど、彼らはみ言葉を引用もするでしょう。しかし、自分の都合のいい部分をつまみ食いするだけで、聖書全体の真理を知ろうとはしません。自分の感覚や感情を御言葉よりも上に置こうとしているからです。

 

   世界を始め、世界を終わらせるほどのみ言葉の力。この力を信じようとしない以上、私たちの姿は冷笑主義へとまっしぐらでしょう。熱心な者をかえって馬鹿にする悪趣味がまかり通りかねません。冷めきった信仰などどこにもない。冷たく笑う白け切った信仰と諦観になんの魅力があるでしょうか。火に象徴されるごとく、不純なものは取り除かれて、神がこの世界を完成する日が必ずやって来る。そう信じて待ち望む者の心は希望で燃えています。

  

 もっとも何かを待つ者の気持ちとしては必要以上に長く感じるのも事実です。しかし私たちの時間感覚と、神の時間設定は違うことは詩編90編の引用からも教えられています。いや、それどころか、むしろ待っているのは神のほうだと言うのです。救われる者がなんとか起こされて欲しいと、世の終わりを引き留めておられる。じれったいともどかしく思う前に、主のあわれみによって主の日が引き伸ばされている恵みにこそ思いを向けるべきでしょう。

  

 それなら、新しく2017年を迎えたことも当たり前のことと割り切ってはいけないはずです。主のあわれみによって一日が伸ばされ、日はまた昇り、誰の上にも一年が加えられる。恵みとして与えられた日々をどう歩むのか。それぞれが問われていると言えましょう。未来こそ神の恵み。去年つらい思いをした人にも、昨年失敗した人にも、等しく新しい一年が始まろうとしている。いつもの一年が明けただけだと冷めきっている場合ではありません。

  

 もちろん、生きている以上、大変なことは多い。だからこそやがて新しい天と地がやってくるとの励ましはかえって必要なのです。ここで天までが消えうせ新しくなるのは、諸天は悪霊の住処だからです。この世界には確かに悪霊の働きとしか言いようのない妨げはある。しかし妨げは取り除かれ、天から地まで主の正義の支配に貫かれる時がやって来ます。悪は悪として評価され、正しいことは正しいこととして神に認められる日がやってくるからです。

  

 実際、この世界が私たちの営みのすべてだとするなら、希望はどこにもありません。正義は捻じ曲げられ、不正はまかり通り、暴力や経済の力で間違いが幅を利かせている現実があります。その中で多くの者が犠牲になり苦しめられています。しかし神の言葉の約束に希望をおく人はそういう中でもどう歩むのかを知っているはずです。この世の有様は草花のようにいつか過ぎ去る以上、天を見上げて、聖なる信心深い生活を心掛けたいのです。

 

 だからこそ私たちはこの年も年の始まりとともに神のみ前に出ます。主がわたしの歩みをご覧になって下さっていることが確かですから、忍耐して信仰のわざに励み、自分の歩みに気を配るのです。ならば、主の憐みを信じてこの一年も証しのために備えておきましょうか。自分自身を主に差し出すのです。主の年2017年、主はどういう思いがけない恵みを備えておられるのかを期待しながら。心を高くあげよう。待ち望め、主を。