1月8日 エステル1章1節―22節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「夜をゆく時も」

 年末年始を海外で過ごす方もおられます。エステル記の舞台はペルシャです。王宮の180日間に及ぶ豪華絢爛な宴。めくるめく世界ですが、実際は軍事会議なのです。国は手ごわいギリシャとのきな臭い戦争を継続中。食事をとりながら大切な会議を行う習わしなのです。王として責任をもって部下をまとめ、緊張感をもって取り組まないといけない国のこれからを左右することです。しかしそこには神への祈りも礼拝も賛美もみ言葉も見られません。

 

 これは私たちの生きている世界です。私たちが遣わされる社会も神なき世界なのです。信仰が特に大きな比重を占めるわけではない。信仰の価値観に基づき大切な決定がなされるわけでもない。あまりに人間的で、良くも悪くも徹底的に世俗化された社会。しかし暗闇の中だからこそかえって見えてくる夜の恵みもある。今日は公現を祝う時ですが、東の博士にしても夜をゆく旅だからこそ、幼子イエスと出会う導きの星の光が見えたとも言えませんか。

 

 その長い会議が終わり、打ち上げが始まりました。王は緊張も解けたのか、気が大きくなり、酒宴の席に王妃ワシテを呼びつけようとします。王妃の美貌を自慢しようとでも言うのでしょうか。これは非常識な振る舞いでした。当時男性だけの場に王妃が顔を出すことははしたないことだったのです。王妃がそれを断ったからと言って別に王妃に非があるわけではありません。王が王妃の拒絶に怒りますが、非はむしろ王にこそあると言えるのです。

 

 ただのつまらない痴話げんかと言ってしまえばそれまででしょう。しかしこれは私たちの姿でもあります。大きい働きに対しては誰だって緊張感をもって慎重に取り組むものです。従って失敗も少ないのです。ところが、緊張が解けた瞬間に、小さい、ささいなことに足元をすくわれることがあるのです。今まで精一杯支えてきた相手に対しても、人格を傷つけるような言動を平気でしてしまいかねない危うさがどこかに潜んでいたりするものなのです。

 

 怒った王は部下に相談し、妻を更迭させてしまいます。法律から言うと妻は無実なはずです。しかし法律もルールも関係ない、王の命令の方が絶対だと言わんばかりです。権力者のプライドのためだけに法でさえも覆される。ひとりの女性の人生が狂わされていく。犠牲にされていく。部下も王を止めようとはせず、むしろ権力者のご機嫌をとることだけに専心している事なかれ主義です。法律も誰も彼女を守りはしないし、庇ってもくれないのです。

 

 私たちの生きる現実そのものではありませんか。力ある者の手で、ルールが簡単に捻じ曲げられる。誰も止めようともしない。理不尽にも多くの犠牲者の人生が踏みにじられる。信仰者である私たちも罪の世界で生きることを余儀なくされます。神なき世界ではどこでも人が自分の王国を築き、神のごとく振る舞い出すのです。しかし、どこに神がおられるのかと分からなくなる世界でも実際は神は生きて働いておられるのです。見えない隠された形で。

 

 この方を信じているからこそ、私たちは明日からのぞみをもって遣わされていくことができる。切り捨てられて、踏みにじられた者の痛みをご存知の神がおられる。しかもこの方は最悪な状況の中からでも、かえって最善を生み出すことのできる摂理の神なのです。確かに緊張感をもって生きていかないといかない日々であるには違いない。だからこそ、夜の闇をゆく時も主の導きのうちにあると告白できる人生に深い慰めを感じずにはおれません。