1月22日 エステル記3章1節―15節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「嵐吹く時に」

生きていくうえでポリシーは大切です。前回、王の暗殺計画を未然に防いだモルデカイの功績は忘れ去られてしまったと学びました。一方で、破竹の勢いで出世街道を大臣の地位にまで昇りつめ、権力を得たのがアガグ人のハマンでした。イスラエルとアガクの祖アマレクの間にはモーセ時代の昔から確執がありました。それも理由のひとつだったのかもしれません。モルデカイは決してハマンに頭を下げようとはせず、自分なりの信仰の信念を貫きます。

 

教えられる気がします。信仰者は誰でもいい意味でのこだわりをどこかに持っているものです。これだけはゆずれない、ぶれることのない中心軸と強い意志。なんでもいいと融通無碍に受け入れるのではない。信仰に導かれた独自のライフスタイルや信念に生きていくなら、信仰者が少数派のペルシャのような環境に生きる時も決して流されることはありません。しかも、そのような確固たる生き方は回りまわって必ず周囲への祝福ともなるのです。

 

当然、ハマンにしたら面白くないのです。誰もが自分にかしづくというのに、一人だけまつろわぬ者がいる。彼は相手への憎しみからあろうことか、ユダヤ民族全体の根絶やしを画策するのです。あることないことを王に吹き込み、王の法令を守っていない民族が王国内にいますと濡れ衣を着せる。根絶やしのための資金なら自分が持ちますとまで言い放ち覚悟を伝えるのです。計画がうまくいけば、ユダヤ人の財産は没収されて帝国のものになるのです。

 

これはギリシャとの戦争に敗れ、財政危機に陥っていた王にとっては、思わぬ国家経営の資金調達になる。願ってもいない機会に映ったことでしょう。それもあってか王は真相を深く確かめようともせずにハマンの提案を簡単に受け入れてしまいます。大臣の口車にまんまと乗せられ、コントロールされる王の危うさがここに露呈されています。そしてプルと呼ばれるくじによって、ユダヤ人の将来を握る恐ろしい日取りまで予定されてしまうのです。

 

この恐ろしい決定は別に意外なことではありません。神の民を憎み、教会を苦しめ亡きものにしようとする力はいつの時代にも存在してきました。古くはアマレクがそうでした。わが国の場合もキリシタンが弾圧され多くの殉教の血が流されてきました。今世紀にはホーリネス教会への弾圧もありました。21世紀の現代においても世界の多くの地域でクリスチャンへの迫害は続いてます。むしろ、平和であることは神の特別な恵みの時なのです。

 

そしてついに王の印鑑と王の名前で布告が発布され、帝国内のあらゆる言葉に法令は翻訳され、全国に送られていきます。王宮では祝杯があげられていました。ところが王のおひざ元のスサの都では市井の者の間に混乱が起こったことが伝えられています。それはそうでしょう。寝耳に水の話だったのですから。元はと言えばハマンの私憤に王が利用されての法令ですから。しかし、神の民にとっては暗闇に閉ざされた状況と言ってもいいでしょう。

 

信仰者として生きようとする時。いいことばかりとは限りません。暗闇に取り囲まれることもある。思わぬ向かい風に怯みそうになる時もある。自分たちがこれからどうなるか全くわからない。言ってみれば宙ぶらりんのような状態です。しかし考えてみれば何もかも先のことを見通せるのだとすれば、そもそも信仰など必要ないのです。宙ぶらりんだからこそ、嵐吹く時代だからこそ、暗闇だからこそ。かえってここで働かせましょうか。主への信仰を。