2月5日エステル5章

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「神のみ前に」

 緊張の一瞬は誰にでも訪れます。エステルもそうだったでしょうか。立入禁止の王の内庭に入り込んだ時。もし王が通りかからなければ。もし王のお召しがかからなければ。ただでさえ30日以上も王にお目にかかっていない状況で。警備上、ことによると死罪もあり得る。しかしユダヤ人殲滅の法律をひっくり返すには、偶然に賭けるしか彼女にはありませんでした。しかしこれは一か八かの危険な選択だったのでしょうか。そうではないと思います。

 

 王妃はモルデカイ始め同胞ユダヤ人に3日間の断食祈祷をお願いしているのです。もちろん自身も侍女も断食して祈り、その結果きっと大丈夫だという神からの確信に立てたのではないでしょうか。だからこそおきて破りの大胆な行動もできた。この行動を支えたのは明らかに祈りです。迷いやおそれにある時も、祈りが確信をもたらし、聞かれたという手ごたえをつかんで立ち上がらされる体験であるなら私たちも知っているはずではありませんか。

 

 実際、王は上機嫌でエステルを見て杓を伸ばします。近づいてよろしいという許可です。国の半分でもあげようとは寛容さをあらわす当時の常套句です。しかしここで願いを直訴することをエステルは控えます。王の名前で出された法律をひっくり返すことがいかに難しいかをわかっているのです。ですから慎重に、王のために今夜宴を開きますのでハマンといらして下さいと招待するにとどめます。願いはその時に申し上げますと含みをもたせて。

 

 信仰とは神に働いて頂く時間をあえて置くということでもあるのです。複雑で厄介な問題を今すぐなんとかしないといけないと焦りがちな私たち。しかし、熱を入れてあれこれ動き回ることが必ずしも信仰的な姿とは限りません。かえって神に信頼を置こうとせず、自分の力でなんとかしようともがいている証しかもしれない。スピードだけで測ってはいけません。神に働いて頂こうとする信頼があるなら、急がなくても好機は必ず巡ってくるものです。

 

 当然、ハマンはご満悦でした。王妃の宴に名指しで自分が招かれたのですから。特別扱いされたと思い込んでいます。王妃の宴の帰り、自分に敬礼しないモルデカイを見て苛立ちはしますが、機嫌がいいのでなんとか自分をおさえることができたのでしょう。一方、モルデカイは神の前では取り乱しても、人に対しては一切卑屈にはならず動じることもありません。これが信仰に生きる者の強みでしょう。好対照な二人の姿が鮮やかに対比されています。

 

 ハマンはユダヤ人全滅の前にモルデカイを明日にでも木にかけて処刑したらいいとの家族の提案を受け入れ、高い柱が用意されます。それでなんとか怒りをしずめようと言うのでしょう。逆らう者はこうなるとの見せしめでしょう。うぬぼれが強く人からの称賛を求めたがる者ほど、案外プライドが傷つきやすい。相手のちょっとした言動に不安になるものではないでしょうか。人からの評価に一喜一憂している間違った価値観に囚われているからです。

 

 教えられます。自分の思い通りに進んでいると慢心している時にこそ、かえって滅びの影がひそんでいるとは言えそうです。しかし、当の本人にはその危険性は全く自覚できていないようです。王妃のひそかな胸の内にも思い至らず、まして神の深い計画など知る由もなく。すでに転落は始まっています。愚かな失敗の兆候は見て取れます。人目だけを意識して生きるのか、それとも神のみ前に生きるのか。その違いはあまりにも大きいと言う他ありません。