2月12日 エステル6章

 こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「主の手に導かれて」

 なんという不思議な巡り合わせかと息をのむ時があります。この晩、王は眠れなかったと言うのです。ハマンが明日、モルデカイを木に吊るして殺そうと決めていたまさに同じ夜のことなのです。眠れぬままに部下に宮廷日誌を読ませて、はじめて自分の落ち度に気づく。自分の暗殺を未然に防いだ無名の門番になんの賞与も与えていなかった事実。王はおそらくこの時、はじめてモルデカイという門番の名前を記録から知ったのではないでしょうか。

 

 聖書にははっきりと書いていませんが、これは明らかに神の配剤としか言いようがない。神が王を眠らないようにさせたのです。宮廷日誌を読むように導かれたのです。モルデカイの存在を知らしめて下さったのです。私たちが眠れない夜を過ごす時があったとしても、神は不眠不休で働いて下さっています。あるいは自分にとって不都合なことや思わしくないことを用いてさえ、神は計画を前に進められる場合さえあるのだと覚えることにしましょう。

 

 驚くべきことにその時、ハマンが王の庭にやってくるのです。翌日のモルデカイの処刑に王の許可を得ようと。なんと間の悪いことでしょうか。王は丁度よかったとばかりハマンに相談します。「賞与を与えたい人物がいるのだが、何をしたらいいだろうか」と。うぬぼれの強いハマンです。これは自分のことに違いないと勝手に思い込みます。その人物のために派手な表彰式を催したらいかがでしょうかと自分好みの提案まで王にしてしまうのです。

 

 すべりやすい道が人生にはあります。自分の願望のためには平気で残忍にもなれる人はいます。その性格では遅かれ早かれ転落は目に見えていました。得意げに語るハマンの姿にさすがの王も少しは彼への疑念が生まれてきたかもしれません。彼はいい気になってやりすぎてしまったのです。神が彼を遠ざけたとも言えますが、自分でも気づかないで滅びの道をひた走っていったとも言えるのです。歩くのなら神に祝福される道を歩きたいのです

 

 ぎりぎりのところで形成は一気に逆転します。モルデカイの処刑は当然なくなり、むしろ立役者として表彰される。ハマンはその表彰式で彼の引き立て役をしなければいけなくなります。自分が憎んでいる男の介添えをするとはなんという屈辱と敗北感だったでしょうか。しかし、みじめであったとしても王の命令とあらば大臣である以上、公務としてしないといけない。ユダヤ人を敵に回しても勝ち目はないという家族の反応ももっともでした。

 

 高ぶっていた者が退けられる。不当に卑しめられていた者が引き上げられる。これが変わることのない主の原則です。思えばハマンと違って、モルデカイは誰も陥れたことはなかった。手柄を吹聴したことも、それを盾に賞与を要求したことも。悲しい目にあい、苦しい立場に追い込まれても、ただ神に心を注いで祈り続けました。これが信仰に生きる者の姿ではないでしょうか。神はこのような人を決して忘れたもうことはありません。

 

 神が引き上げたもうとは、今までマイナスだった人生がどうにか人並みのゼロベースに戻るという次元の話ではありません。ゼロどころかプラスに転じる。プラスどころか掛け算のような倍の祝福。命が守られただけではない。不当な評価が撤回されるだけではない。神の民には不思議な祝福があるのだと周囲の者にさえ明らかにされ、証しとなる。主の導きの手とはこういう手です。この事実を信じる者がいったい何をおそれる必要があるでしょうか。