2月26日 エステル記8章

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「神の民として」

 問題解決に至るためには幾つものプロセスを通ります。ハマンが失脚し、命を落としました。だとしてもそれで既に発布されたユダヤ人虐殺命令が取り消せるほど簡単なものではありません。エステルは泣いて王に懇願します。そこで王がモルデカイに命じたことはユダヤ人を保護する自衛のための新しい法律を作ることでした。要は以前の法律を無効にする新法が作られれば、王の権威も保てますし、王の意思も国全体に伝わると考えたわけです。

 

 私たちはどこかで問題を一気に解決する夢を見がちなのです。しかし現実の人生は問題がいっぺんに片付くことはまれです。実際には少しずつ、段階を踏んでクリアーしていくのです。思いもよらない打開策や突破口が徐々に開かれていきます。とは言え、神を信じるとは神が何とかして下さるだろうと自分は何もしないでいい姿ではありません。主の最善をどこまでも信じ、なおかつなすべきつとめを果たす。そこに道は見えてくるはずなのです。

 

 新法の発布によってスサの都は歓喜に包まれます。ハマンに代わってモルデカイが大臣となります。彼は王の片腕として特別な晴れ着を着せられますが、3章の荒布とは対照的です。神の民にとって喜ばしく、祝うべき日となりました。この日を記念してイスラエルでは今でもプリムの祭が祝われているのももっともなことです。無理もありません。死ぬべき運命に定められた者が不思議なる神の手によって解き放たれて、いのちが守られたわけですから。

 

 私たちの人生も死に取り囲まれています。死に向かって進んでいる存在と言ってもいい。誰かに傷つけられ、自分で自分を責め、時に自虐的に生きている。主はそういう者の人生を罪から解き放ち、救い、死からいのちへと移して下さった。神の民となるとはそういうことです。その主のいのちに満たされる時が礼拝だと言ってもいい。礼拝とはまさに祝いの時です。主の恵みを思えば歓喜に包まれてこの方を喜び祝わずにはおれないではありませんか。

 

 そこから思わぬ波及効果まで出てきました。なんと国内の他の民族までユダヤ人になりたいと思う者まで現れるのです。とりもなおさずそれは聖書の神を信じたいと言う告白でもありましょう。なぜでしょうか。神の民は特別な存在であり、神はこの民を不思議な方法で守って下さるのだと言う証しを彼らはこの目で見てしまったからだと思われます。今まで隠れて主を礼拝していた者も、おおぴっらに主を礼拝できるようにされたことでしょう。

 

 今も同じです。誰が自分の人生を守って下さるのだろう。誰がわたしを支えて下さるのだろう。危機の多い人生の中で誰もが一度は考えたことのある問いではないでしょうか。我が子を守らないといけない。夫や妻を支える必要がある。両親をいたわるつとめがある。しかし襲い来る人生の嵐に誰もが己の限界と非力さを認めざるを得ません。先行き不透明な不安の中だからこそ、誰もが潜在的に確かに答えを探し求めていると言ってもいいでしょう。

 

 感謝しましょう。答えはキリストです。主を信じる者の人生を神は必ず責任を負い給うといくらでも証ししてみせましょう。一時は困難を通っても、主は神の民に恥をかかせ給わないと答えてみせましょう。神の民は不思議で、特別な存在なのだと誰もが認めざるを得ない。神は栄光を現して下さいます。あの人には神がともにいる。周囲も教会とクリスチャンを評価せざるを得ないのです。それこそ最大の伝道。幸いなことにあなたも神の民のひとりです。