3月5日 エステル記9章、10章

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「祝福となる」

 正義感は大切です。しかし、いくら正しさの主張であってもそれが高じると差し障りがあります。自衛権を得たユダヤの民。しかし、抑制が効いています。命を落とした者の数は多いようにも思いますが、あくまでもそれは以前の法律を盾に襲い掛かってきた、ならず者への正当防衛に関してだけです。女性や子どもや年輩者、あるいは無関係な一般市民に手をかけたわけではありません。また誰も相手の財産は奪わなかったと再三繰り返されています。

 

 私たちはやりすぎてしまう者だとどこかに覚えておいた方がいい。これくらいしても当然だ。これくらい言わないと気が済まない。悪いのは相手なのだから。いいえ。仮にそうであっても、そこまでしなくても。とことん追い詰めなくても。どこかで歯止めをかけるのです。どこかに落としどころを探すのです。気を付けないと被害者が加害者になる罠もある。あるいは、やりすぎる心理の裏に神への信頼が欠けていることもないとは言えないのですから。

 

 もちろん、被害は最小限で済んだとは言え、血が流されたことは否めません。しかし、一方ではいいこともあったのです。ペルシャに住むユダヤの民は喜び祝い、食べ物を贈り合い、貧しい者に施しています。国内にいたユダヤ人がユダヤ人虐殺命令の危機を通してひとつにされていったことがわかります。かえって信仰的になっていったのです。危機以前の生活がどうだったにせよ、貧しい者を顧みる律法の精神に立ち返っていることがわかるのです。

 

 教会も危機を通ります。しかし逆風にも意味はある。逆境はかえって私たちの信仰をひとつにし、祈りに向かわせるからです。バラバラだったかもしれない心が試練を通して結ばれていきます。せっかく信仰が強められたのですから、一過性のものにするわけにはいきません。問題が過ぎ去ったとたんに元に戻ったというのではない。前より悪くなったというのではない。あれ以来、教会は信仰的に成長し一皮むけましたと証ししようではありませんか。

 

 最後にペルシャの国の変化を学んで終わりましょう。ペルシャ王の課税が記されています。考えてもみて下さい。当時のペルシャはギリシャとの長引く戦争で経済が疲弊していたはずです。ところが税率のアップは、とりもなおさず国内経済が持ちこたえ、上向きに回復していった兆しです。疲弊した状態の国民に税率を上げるほど愚かな政策はないからです。しかも、この景気回復はユダヤ人であるモルデカイの大臣就任と深く関係しているのです。

 

 要するに神の民とは国に祝福をもたらす存在なのです。私たちはひどい言葉を浴びせられることがある。あなたが信仰を持っているせいでこんなひどい目にあうのだ。あなたには迷惑を被った。しかしそれは真実ではない。長い目で見れば私たちの存在は誰かにとっての祝福なのです。国の祝福とさえなる尊い存在です。あなたは決してお荷物でも厄介者でもない。それどころかあなたはそこになくてはならない存在なのだと主は励まして下さるのです。

 

 アブラハムへの祝福は今でも有効で、それは神の民である教会に引き継がれたのだと覚えましょう。その証しに礼拝では三位一体の神からの祝祷をもって私たちは世界に送り出されていくではありませんか。わたしは祝福そのものなのだと感謝しながらエステル記を読み終わりましょう。レントです。自分なんてダメだといじける時ではない。自分に向けていた目を恵みの主に向けるなら、今までとは全く違った景色が浮かび上がってきませんか。