3月12日 マルコ14章1節―11節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「香油を注ぐ」

 レントキャンドルの火が一本ずつ消えていきます。イエス様の地上での最後の日々が不穏な空気も漂う中、進んでいきます。主は最後の日々をべタニアのシモンの家で過ごしています。重い皮膚病を患った病人でした。この病気は当時、神に見捨てられたものとして社会から忌み嫌われました。しかし、主は彼の家で食卓を囲むのです。主は最初から最後まで世間が見捨てた者とともにいて下さいました。わたしはこのために来たのだと言わんばかりに。

 

 主がそうであったように教会も、孤独な人を受け入れてきました。見捨てられたような人の居場所となってきました。事情のある傷ついた方を包んできました。あるいは私たちも悲しいことに誰かに見捨てられる体験はないわけではない。友人に、家族に、仲間に。しかし、だからこそ覚えて頂きたい。主だけは、絶対にわたしを見捨てることも、見放すこともなさらないのだと。むしろ見捨てられた者にこそ手を指し伸ばして下さるのが主なのだと。

 

 それどころか主は愛する者のためにすべてを捧げようとしておられます。ご自分の命ごと与え尽くそうとしておられます。無名の女性が高価なナルドの香油を惜しげもなく全部主に注いだのも、主の自分への愛に感動してではなかったでしょうか。1年分の給与にも匹敵する香油です。なるほど、無駄な浪費だと言われてしまえば、確かにそうなのかもしれない。しかし、時に主への愛は損得勘定の計算さえもやすやすと超えてしまうものなのです。

 

 実際、福音が伝わるためには、今までどれだけの数の人が一見無駄とも思える働きに身を粉にしてきたことか。ひとりの人が救われるために、どれほどの人が惜しみなく犠牲を払ってきたことでしょう。単に費用対効果のみで割り切るなら、これほどコスパの悪い話はない。愚直とも言える行動です。その動機は、自分にとって主の福音がどれくらいの値打ちを持つのかに深く心動かされて、その恵みに応答してのことですとしか言いようがありません。

 

 彼女を批判する者たちにはこの動機が理解できません。そんな無駄なことをするなら、その金で貧しい者に施せと批判します。おそらく主の弟子たちも一緒になって彼女を責めたものと思われます。理屈としてはどれだけ正しくても、状況によっては間違っていることはあるものです。では、彼らは今までも貧しい者に手を伸ばしてきたでしょうか。再三、主が受難を予告してきたのに。上昇志向の彼らの心にどれだけ響いてきたと言うのでしょうか。

 

 主は外野の批判を一蹴されます。彼女がしたのは良いことなのだ。主のためにすることこそが良いことなのです。主のためになす自分の精一杯が良いことなのです。おそらくそれは彼女の意図さえ離れて、主の受難の葬りの備えとして記念となる。私たちが主のためになしたこと。どれほどつたないことであれ、どれほど小さなわざであれ。それは本人の意図さえ離れて、主の御用のために、本人のあずかり知らないところで大きく用いられるのですから。

 

 しかし問題は私たちが主のために何をするかではない。主の愛と恵みが自分の人生にどれほどの重みであるのか。福音の値打ちと言ってもいい。記念となるほどの値打ちに気づかされた者は、自分自身を主にお捧げすることさえ惜しくはありません。レントとはやめる季節です。自分を責めるのをやめる。自分を罰するのをやめる。むしろ自分を愛してやまない主の福音の値打ちに思いを向ける。そこから生まれる思いもよらない行動はきっとあります。