3月19日 マルコ14章12~21節

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「主の晩餐」

 

 自分がどこに向かうのかわからない。多くの人の不安はこれにつきます。弟子たちもわからないまま戸惑っています。時はイスラエル民族の信仰の原点となる過越祭。この日はエルサレムで多くの者が特別な料理を囲むのです。しかし、食事の備えをどこでしたらいいのですか。右も左もわからない彼らに主は指示します。市内で水がめを抱えた男に出会う。その人に案内させなさい。水をくむのは通常女性の仕事ですから珍しいしるしになるのです。

  

 まるでおとぎ話です。狐につままれたような不思議な指示です。ここでは主は自ら過越の備えをするのだと言わんばかりに率先して予め場所を準備しておられるのです。救いとは主が用意して下さるもの。私たちの側で何らかの備えが必要というものではない。なにか熱心に求めた結果、救われたのだとは誰も言えない。ただ主が下さるものを恵みとしてありがたく受け入れる。それだけです。必要なのは主の言葉を信じて従う応答をすることのみです。

   

 従って、ここでは主信じるか、信じないかだけが鍵なのです。信じてどこまでも従うか。信じられずに途中で従うのをやめるか。主の晩餐の席で、弟子のひとりが主を裏切ろうとしているとの主の宣言。なぜユダが主を裏切ったのか古来多くの人が説明してきました。しかしマルコはその理由については一切沈黙しています。理由については無関心とも言えるほどです。ただ、主を信じていた者が、主が信じられなくなった。事実だけが重く語られます。

  

 信じていたのに信じられなくなる。何もユダに限った問題ではありません。わたしたちにもいつ起こるかもしれない問題ではありませんか。実際、主の告白に弟子たちは慌て始めます。まさかわたしではないでしょうと自分を安心させようとするのです。裏を返せばここにいる全員も自信がないのです。最後まで主に従えるかどうか確信をもって誰も答えきれない。自分は何がきっかけで主を裏切るかわからない。信と不信の間で揺れ動いているのです。

  

 しかし、信じるか、信じないかの落差はあまりにも大きい。主を信じない者は生まれてこないほうがよかったと嘆くほどです。信仰は決して軽いオプションではない。主を信じる以外に生きる道などどこにもないのです。だからこそ、信じ切れずに揺れ動く者のために主は晩餐を開いて下さる恵みを覚えたいのです。主を裏切る者、信じられない罪を抱える者のためにからだを裂き、血を流し、いのちごと十字架に与え尽くしたもう方がここにおられます。

  

 もしも信仰が一時の自分の感情にすぎないなら、冷めてしまえばそれまででしょう。しかし信仰は自分の内側になにひとつ根拠を持たないのです。信仰はつねに自分の外に根拠を持つ。主が苦難の道を歩まれ、十字架にくぎ付けにされたこと。この重たい恵みの事実は否定しようにも否定しきれないではありませんか。この事実を自分の中に導きいれるのが聖霊の働きと言ってもいいでしょう。不信に嘆く者も。すべての人よ、この方を仰ぎ見よ。