4月2日 マルコ14章22節―31節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「主を囲む食卓」

生きていくのに食事は大切です。何を食べるかも大事ですが、誰と食べるかはもっと大事です。弟子たちは主と過越の食事を頂いています。しかし祝いの席にふさわしくない重苦しい空気に包まれていたはずです。主を裏切る者がこの中にいると爆弾発言がなされた以上、能天気になれるはずもない。食事ものどを通らない張りつめた雰囲気だったでしょうか。しかし主はここで犯人捜しをして誰かをつるし上げて責めようと意図されたのではないのです。

 

実際は逆です。主は信じることをやめようとする者に対して、ご自身を丸ごと差し出そうとしておられます。この肉を食べよ、この血を飲めといのちごと与え尽くそうとしておられます。主の晩餐と呼ばれるこの時の食事の記憶がやがて聖餐へと受け継がれていくこともゆえのないことではありません。ここに究極の愛があらわされているのですから。どこの世界にご自分をいのちごと犠牲にして裏切り者さえ救おうとされる神がおられるでしょうか。

 

オリーブ山に祈りに向かわれる道で、主ははっきりと告げられるのです。一部の誰かが主につまずくとは言わない。ここにいる全員がわたしにつまずく。信じることを止める。羊飼いを打つと羊が散らされるように。何もかも無駄だった嘆きなどではありません。糾弾しようと言うのでもないのです。違います。真の信仰が生みだされるためには、つまずきは起こらなければならない。信仰によって集められるためには、今は散らされなければいけません。

 

私たちもどこかで覚えておいたほうがいい。信仰生活にはつまずきがつきものなのだと。私たちは時に人にがっかり失望します。牧師につまずき、兄弟姉妹につまずき、教会につまずく。気の合わない人や、苦手な人と関係を断とうとする。しかし、それは深いところではイエスキリストにつまずいたのです。人にはつまずいたが、キリストにはつまずいていませんなどとは決して言えないのです。真の信仰とはそのつまずきを越えた先にあります。

 

真の信仰を生み出すと言う以上、正しいとは言えない信仰もあるわけです。正しくない信仰の典型はペテロのように自分の力でなんとかしようとする信仰です。自分の力を頼り、自分を誇るわけです。当然、そこには比較が生まれましょう。優劣が意識されましょう。実際、他の人がつまずこうと自分だけはとペテロは他の弟子と自分を比べるではありませんか。いいえ、あなたは鶏が二度鳴く前に三回主を知らないと言う。あなたもつまずくことになる。

 

気を付けましょう。私たちはどこかで信仰とはこういうものだと自分なりの信仰観を規定してしまいやすい。信仰が長くなればなるほど特に。自分と比べてそれに合致しない者を簡単に裁くのです。そんなものは信仰ではない、そんな人は信仰者でないと平気で決めつけるのです。そのうちに神とはこういう方だと無限の神までも自分の枠におさめようとするでしょう。しかし、主の十字架は私たちの勝手な規定を何度でも打ち砕いていく力なのです。

 

真の信仰は自分の力を誇る偽りが粉々に砕かれ、焼き尽くされた先に、聖霊による取扱いの中で生まれてきます。十字架を見上げるとはある面では審判を受け入れることです。死ぬということでもあるのです。神に裁き尽くされるのです。息の根を止めて頂くことによってのみ新しく生かされる逆説がここにある。ならば自分に失望しても構わない。底つき体験をした者だけがわかる神の恵みの世界がここにある。主よ、今受け取ります、あなたの愛。