4月16日 マルコ16章1-8節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「限界の先」

 イースターの風景にはなぜか朝がふさわしい気がします。今日の物語も早朝、日の出から始まります。女性たちが主の遺体に香油を塗るために、墓に赴きます。安息日が始まるタイムリミットが近づく中、慌ただしく主は埋葬されたので、香油を塗らないと遺体の痛みが早まる。だからこそ、何を差し置いても夜明けとともにいかねばとはやる気持ちが読み取れます。しかし重い墓石を開くことなど女性の力ではできない現実が立ちはだかっているのです。

 

 私たちの善意とはこういうものです。よかれと思ってしようとする。そのことでさえ、限界がある。たとえそれが主のためであろうと。いくらはやる気持ちや焦る思いにとらわれて動き出そうとしても重い墓石のような現実は動かしようがない。熱意だけではどうにもならない。努力だけでは打開できない。それ以上、先にはいけない地点にぶつかるのです。なんと無駄な行動かと女性を笑う資格はありません。私たちも同じことをしているのですから。

 

 ところが不思議なことに重い石が転がしてあります。主が復活されて墓の内側から石を動かし出て来られたのです。当然遺体はない。しかしもっと不思議なのは、墓石を動かさなければ復活できないわけでもないことです。復活の主は墓石がそのままでも外に出る力もお持ちに違いありません。開かれた墓石は無駄なパフォーマンスにさえ映る。主にとっては必要なくても、人にとっては必要だったからです。開いた墓石を見て復活を信じるために。

 

 主は人の限界をご存知です。主は復活をかねてより語ってこられました。それでも信じられない。そういう弱さを抱えた人のために、明らかな目に見えるしるしを用意して下さいます。女性たちはじかに復活の主にお目にかかったわけではありません。そういう意味ではからの墓は復活の間接的証明でしかない。状況証拠にすぎません。しかし、どれだけ間接的でも目に見えるしるしが信仰と結びつく時に強められることは私たちも体験済みのはずです。

 

 しかし、わたしの必要を満たすために主は復活されたと表現するのには誤解を招きます。そうではありません。私たちの不信のためにしるしが与えられるとは言え、究極的には主の復活は主ご自身の目的を果たすためです。主ご自身の目的とは十字架と復活を核とする福音の証し人として私たちを立てることにあります。だからこそ主の使者である若者は彼女たちに弟子とペテロに伝えよと命じるではありませんか。

 

 その割には物語の結びはなんとも後味が悪い。女性たちは誰にも告げなかったのです。黙り込んだのです。恐ろしかったからだと言うのです。復活の証人として主に立てられているのに証しができない。ここにも人の限界がある。これも現実なのです。思い当たる節があります。自分の必要を満たすことと、主の必要に答えようとする決心の間にはいつも溝がある。葛藤も心の不安もおそれもある。なぜ自分なのだ。重い使命を避けようとする自分がいます。

 

 復活の主はあなた方より先にガリラヤに行かれる。だからこそこの約束は励ましです。ガリ多くの弟子にとってそこは過去の恥辱の記憶の残る地元です。彼らは夢破れ挫折して都を去って地元に舞い戻ることになる。他に選択肢などありません。しかし、復活の主は彼らより先にそこに行かれ、彼らを待ち受けておられます。さあ、ここからもう一度ミニストリーを始めよう。世間が見向きもしない地で、疎外された人々に対して。主はそこにおられます。

 

 挫折で終わるストーリーは信仰の世界にはないのです。失敗は社会的死。世間はそれを無意識にでも刷り込ませ不安にさせます。主のストーリーは全く違う。夢破れ、限界に突き当たってもいい。惨めさを味わってもいい。むしろ、そこから主は生かし直して下さる。あなたの使命はそんなことでは終わらないとその先を描いて下さる。主は今も生きておられます。なぜわたしの環境はこうなのだと嘆くすべての人よ。復活の主はそのただ中におられます。