4月23日 ローマ1章2節-4節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「この福音に生きる」

 30周年を迎える教会はたくさんあるでしょう。しかし最初の教会が生まれてわずか30年ほどでエルサレムから遥か遠い、当時の世界の中心ローマにも教会が生まれたと聞くとそのスピードたるや驚異的です。これは無名のクリスチャンがわたしが生きているのはこの福音を証しするためですとの強い自覚や使命感に捉えられていたからです。逆風や困難は今の時代以上にありました。そんな壁さえものともしない力が福音にはありました。

 

 この福音とパウロは言います。あの福音、別の福音、違う福音があるわけではない。この福音しかない。み子イエスキリストにつながること。この関係に生きる。このいのちの中にある。ここに目を向ければいい。ローマ皇帝のお告げが福音と呼ばれた文化の中でした。今も多くの人がこれこそ福音だとばかりに、とよかれと思って善意で私たちに助言します。しかし間に合っているのです。主だけで十分なのです。主を持つ者はすべてを持つのです。

 

 福音に生かされているのはひとえに神の約束が実現してのことです。約束は立派な人に対して果たされたのではありません。むしろ私たちは悲惨でした。人間関係が破たんしていた人もいる。孤独のふちにいた人もいる。恥と後悔にまみれた人生もあった。これらはすべて自分の罪の結果であり、誰かの罪に苦しめられてのことでした。悲惨な状態だから約束は遠ざけられるのではありません。むしろ悲惨だからこそ神はなんとしても救いたいのです。

 

 この方を信じれば救われるらしいですと言ったところで説得力はありません。この方に祈れば聞かれるそうですと他人事のように言っても相手に届きません。わたしがその体験者ですと胸を張って証しできるからこそお勧めできる。神の約束は真実です。その証拠にこの福音を信じてわたしの人生は変わりました。それどころかわたしは現在進行形で、変えられ続けていますと断言できる。当時のローマでもこの国でも同じはずではありませんか。

 

 救いの約束が果たされただけではありません。今、主は比類ない力で世界を治めておられます。復活によって神の子と定められたとは、復活以前は神の子ではなかったと言いたいのではありません。復活の前はある面で制限されていた神の子の力が、死の力さえ屈服させて今やなんの遠慮も妨げもなく100%の御力で発揮されるようになったということです。端的に言うと無敵なのです。主に逆らえる権威などどこにもないのです。

 

 確かに福音書には主の力あるわざが記録されています。しかし本来の主の実力はあんなものではないのです。私たちの信仰生活はこういう方の力に支えられています。導かれています。主がよしとされるなら、私たちは福音書に書かれた以上の力の主にも出会えるのです。実際、祈ってみればわかるのです。この方の力が。頼ってみれば実感できるのです。この方の凄さが。聖なる霊が、この方がどういう方かを指し示し明らかにして下さるからです。

 

 ならば主が生きておられる事実を画餅にしてはいけない。冷凍食品のように凍らせたままにしてはいけない。まして主が生きておられないかのように生きる必要はどこにもない。こんなすばらしい方が味方になって下さるというのに、しょぼくれた信仰生活を送っているならかなり滑稽な話ではありませんか。主の復活はわたしに生きる力を与えて下さるのです。この方を信じて踏み出す時、驚きと感動の連続です。その信仰生活に倦怠はありません。