4月30日  ヨハネ20章24節―29節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「個別対応」

 自分ひとりだけその場に居合わせなかった。その焦りや悔しさやさみしさは誰もが覚えがあります。トマスだけがいなかった。仲間が復活の主にお会いした現場に。人生を一変させるほどの驚きと喜びに自分だけが預かれなかった。人の証しをどれだけ聞こうと自分は信じない。十字架で死なれた主の手の釘跡と刺された脇腹にこの指で触れてみない以上。信じないという言葉は、裏を返すと信じたい、しかし確証が欲しいという心の叫びにも読めます。

 

 そもそも疑うことは悪いことなのでしょうか。検証することは無意味なのでしょうか。近代の科学や学問は疑問や実証を重ねることで進んできたではありませんか。私たちだって時に信仰生活の中で疑います。確証を求めます。それはあってはいけないと自分で封印することではありません。とことんつきつめなさい。納得のいくまで。考えなさい。気が済むまで。信じるふりをする必要はありません。誰もが答えを見出すまでの道の途上です。

 

 それにしても教えられるのは他の弟子のトマスに対する態度でしょう。事件から八日経って、トマスは彼らとともにいます。考えの違う者が排除されることなく。そんな不信仰者は仲間ではないとも言われず。復活信仰と言えば福音の根幹です。その告白ができぬ者をも、それでも仲間だ。それでもここにいて欲しいと包み込めるだけの度量が彼らにはありました。この空気がないならトマスだっていたたまれなくなってここを立ち去ったはずです。

 

 彼らとて、もともとそこまで物わかりのいい集団だったとは思えません。この変化はやはり復活の主にお会いしたからだとしか思えない。聖霊を受けよと、主が息を吹きかけられて起きた変化にも思えます。聖霊の取り扱いの中で、互いに愛し合いなさいとの主の命令が具体的に結実していく。社会に遣わされる共同体が内部には愛がないなら、なんの説得力もないではありませんか。信じている中身は正しいが閉鎖的で愛がないではちぐはぐなのです。

 

 今までも教会は違う考えの者に居場所を用意してきました。自分と同じタイプの信仰者になれと強要してもきませんでした。あなたなりのペースでいいから成長すればいい。あなたのタイプに応じたなりの取り扱いを期待すればいい。あの人と同じである必要は必ずしもありません。教会には同調圧力は似合わない。だからこそ、教会はありとあらゆるタイプの、ありとあらゆる世代の方が集える場となりうるのです。福音とはそういうものです。

 

 そういう状況でした。復活の主がトマスに現れたのは。主は彼のためだけに訪れて下さった。さあ、あなたが言ったようにわたしに触れよ。あなたの満足を満たせ。しかし、主が彼に手と脇腹を示すのは何も皮肉ではないでしょう。この十字架に至る生き方、この死に方をあなたにも受け継いで欲しい。この福音をバトンのようにあなたに託した。その時に彼は悟るのです。わが神、わが主よ。最も疑り深い人物が誰よりも深い信仰告白の栄誉に預かります。

 

 自分の関心をつきつめる段階の信仰はあってもいい。主は許容しておられます。その道で主はわたしに必ず出会って下さいます。わたしに合わせたやり方で近づいてこられます。しかし出会った以上、対象物を眺めて観察する生き方はもうできない。わたしの人生は変わらないわけがない。たとえ人に出遅れてしまった者でも。一筋縄ではいかない懐疑家でも。わが神、主よ、なぜですか。こんな者にさえも、あなたは大切な福音を託されるのですか。