5月7日 使徒3章12節―21節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「この方に目を注ぐ」

 人が集まってくるにはそれなりの理由があります。ペテロの周りに人だかりが出来たのは無理もないことでした。足が不自由だった男がいきなり歩き出すいやしのわざが起こったのですから。集まる人々にペテロはやおら説教を始めます。彼が強調しているのはイエスキリストを指し示すことです。自分がこの男をいやしたのではない。主の御名なのだ。私たちが知っているはずの私たちの先祖の神がなさったことなら驚くまでもないでしょうと。

 

 わたしたちがすることは自己宣伝ではありません。だからと言って消極的になることでもない。イエスキリストを紹介すること。これに尽きます。そもそもイエス様が生きて働かれるなら、人々のほうで勝手に私たちのところにまで集まってくるのです。そういう相手に主を紹介することなら、自信をもって勧めることができるはずではありませんか。なぜなら、わたしは知っているからです。この方がわたしの救いですと。あなたも必ず救われますと。

 

 ところでペテロはイエス様を聖なる正しい方とも呼び、いのちの君と呼んでいます。聖なるとはこの方が救い主だという告白です。正しいとは人格的にも正しい方ということです。しかもこの方は新しいいのちの創始者として救いを生み出すことのできるお方なのです。そんな素晴らしい救いなら誰もが欲しいと望むのが当然とも思います。しかしそうでもないのです。人は正しいもの、必要なもの、を拒み、亡きものにしてしまうことがあり得ます。

 

 身につまされます。私たちも正しいとわかっていてもみ言葉に従えません。必要だと気づいていても、決断できません。それどころか無視する。憎みさえする。安住の中にとどまろうとする。かえって自分に滅びに招きかねないものを愛しさえするどうしようもない矛盾を抱えているではありませんか。それでも人を救う神の意志は何にも妨げられず、最後まで成し遂げられるのです。そういう者だからこそ救われないといけない憐みを神はお持ちです。

 

 実際、神はキリストを墓の中から復活させて下さいました。いのちそのものである方が死に閉じ込められたままのことなどあり得ないからです。私たちを生かすために。いのちの君を死に追いやった私たちを生かすために。主のいのちに生きるために。ならばこの方が復活した以上、その驚くべき愛の前に私たちは抵抗をやめるのです。無視を続けることはできないのです。自分を死に追いやりかねない罪に振り回され続けることはもうないのです。

 

 それにしても人はなぜこのような倒錯を行ってしまうのか。一言で言うと無知だからです。自分が救われなければいけない存在だとわからないのです。ならば自分の惨めさを知らされた以上、この神に心を向ければいい。悔い改めるとは向きを変えることです。自分ばかりに向けていた目を神に向ける時です。そうすれば創造から終末に至る大きな神の計画の中にある自分の生に気づかされ、今までとは全く違う生き方も目標も生まれてきます。

 

 今や私たちは知っていると告白します。自分のための神という視点にとどまるなら世界観はどうしても狭くなると知っています。神のためのわたしなのです。罪の中から救われたのは、神はあの人のことも救い、立ち上がらせたいと望んでいると告げるためだと知っています。人生の目的も目標も、自分の願いが叶うことなど吹き飛ぶほど、もっと壮大なところにあると知っています。指し示しましょう。あなたにあるものを。イエスキリスト。生きて働くこの方を。