5月14日 第一テサロニケ2章6-8節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「母のように」

 ネットの炎上、匿名の悪意ある書き込み。ネガティブキャンペーン。ターゲットにされることはあるものです。パウロもいわれなき非難を受けています。テサロニケの町の人間が生まれたばかりのテサロニケ教会に吹聴しています。パウロは偽信仰者だと。信徒を信仰から引き離そうとします。当時、様々な宗教の宗教家が怪しげな活動に遍歴することと関係があるのですが、この手の人物とパウロを同質に論じて意識的に貶めようとしているわけです。

 

 私たちにも思い当たります。信仰に対する非難。傷つき怒り悲しむ気持ちは分かります。しかし自己憐憫に浸るのだけはやめましょうか。パウロも自分の評価など気にしてなどいません。むしろこのことで傷つく人、動揺する人、迷う人がいる事実に目を向けます。テサロニケ教会を支えないといけない。あなたがどれだけ傷つこうと、それでもすることはある。手を差し伸べる相手がいる。用いる場がある。主は自分の外に目を向けさせて下さいます。

 

 私たちは自分の痛みにナイーブになりすぎることがある。そのわりに誰かの痛みに対しては反応が鈍いのです。傷つくなとは言いません。傷つきながらもそれでも用いようとされる神のまなざしがあることを忘れてはいけない。傷ついた自分ごと何度でも主に差し出せばいい。順境であれ逆境であれ、やせてもかれても信仰者である以上、あなたは誰かのために主に用いられる。悪意に囲まれた時はもっと上を見なさい。もっと上の次元に生きなさい。

 

 とは言え、今パウロは迫害のために、テサロニケの町に現実問題おられなくなっています。母親が生まれたばかりの我が子と引き離されたような痛みを味わっている。だからこそ、心配してテサロニケにいた時のことを思い起こさせるのです。母が子どもを育てるように教会に優しくふるまった事実を。信仰は与えられてゴールではありません。育てられていく必要があります。子育てにも似て、そこには母親のような優しさが必要なのです。

 

 私たちも教会で様々な人の優しさに触れながら、成長してきたはずです。私たちも誰かに対して優しくなれるでしょうか。なれます。神の愛が注がれているのですから。パウロ自身が信仰を持つ前は冷酷な者だったことを忘れてはいけません。熱心さゆえとは言え、クリスチャンを縛り上げ、獄に渡すほど冷血にもなれた過去。そういう者が復活の主と出会い、愛の神にとらえられ、信仰のゆえに優しい人に変えられていく恵みに希望を覚えます。

 

 そもそも愛するとはどういうことでしょう。与えることです。実際、パウロはいのちまで与えてもいいと思うほどテサロニケ教会に心を注ぎました。犠牲を惜しまないほどに、出し惜しみせず相手に自分の全存在を注ぎだしました。福音とは何かの思弁や思想や抽象的なものではありません。生き方そのものに現れてくるはずのものなのです。主のいのちを頂いた者は、主のように犠牲を負うでしょう。主のように与える喜びを知っているでしょう。

 

 今でも、教会の成熟があるところには、そこには必ず主に応答し福音に生きた者の苦闘が見られるはずなのです。母のように与え尽くしてきた誰かの愛があるはずなのです。励まされます。その結果は決して無駄には終わりません。困難にも負けずに信仰に立てるように成長したテサロニケ教会の存在からも明らかです。私たちもまた福音に生きる者として十字架を担うわけにはいきませんか。あの人に対して愛を注ぐ器になりたいです、主よ。