5月28日 ルカ24章50-53節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「祝福の手をあげて」

 人は苦々しい思い出に苦しめられます。弟子たちにとってべタニアはそういう場所でした。イエス様はこの付近で捕らえられ、十字架へと向かいました。彼らはその時、主を裏切って逃げ出したのです。最悪の別れ方でした。しかし、なぜか復活の主は彼らをいわくつきのべタニアにまで連れ出されます。過去を糾弾しようと言うのではありません。罪と失敗の過去を丸ごと、包み込み、再生させようとなさる深い意図を思わせる、心憎い舞台設定です。

 

 私たちの過去がきれいごとだけですむわけがない。誰かを傷つけたこと。大きな迷惑を与えたこと。主と教会から離れようとしたこともあったかもしれない。誰にでも心がうずくべタニアがあるのです。しかし、自分の過去は最悪だった。最善はこれからだと昔を全否定することはありません。主はどんな過去を用いても、すばらしいものを紡ぎだす名人です。汚点と思っていたあなたの過去すら、主は再生させ、主と誰かのために有効利用して下さいます。

 

 なぜなら、主はここで彼らを祝福されるからです。これは復活の主の地上での最後の働きと言っていい。主はここから昇天されるのですから。ただ一度祝福したのではありません。祝福しながら去っていかれた。何度も何度も、見えなくなるまで祝福の手をあげることをやめられなかった。祝福とは肯定です。あなたの人生を、あなたのいのちを、あなたの過去から将来のすべてを丸ごと肯定する。あなたの人生は主と誰かのために必ず役に立つ。

 

 だとすれば、自分なんてといじけるのはやめていい。劣等意識と自尊心の低さへの囚われから解き放たれていい。お前などいなくてもいい。役に立たないという誰かの呪いの言葉を信じる必要はありません。ただ主の祝福の言葉だけに耳を澄ませましょう。生きよと主は言われます。あなたの人生ごと主のもの。あなたの傷ごと主のもの。あなたの苦しかった過去すら丸ごと主のもの。主が引き受けたものをあなたが否定する必要はどこにもないのです。

 

 主の昇天は別れの時です。それなのにここには悲しみもさみしさもない。あるのは喜びだけです。彼らは喜びに包まれて神を賛美し、礼拝し始めるのです。なぜでしょう。見えなくなっていくとは遠ざかることでしょうか。そうとは限りません。見えなくなるとは近づいてくることでもある。なぜなら、主が近づいて、わたしの心とからだの中にまで入ってくるなら、見えなくなるのも当然ではありませんか。ここで主は今まで以上に近くなられたのです。

 

 考えてみると、見える間、主は物理的に一か所にしかおれません。誰かといっしょにいるときには、他の人とはともにおれません。時間と空間の限界があったのです。しかし、今やその制限は取り除かれました。天とわたしがつながったと言ってもいいでしょうし、わたしの心が天の一部になったと言ってもいいと思います。正しく言うと昇天は別れではないのです。むしろ出会いなのです。新しく出会い直すのです。出会いは人を変えるのです。

 

 それは個人的体験にとどまりません。主を信じる全ての者のうちに主はおられます。この近さに生きる者は主をほめたたえずにはおれません。礼拝せずにはおれません。互いのうちにおられる主が、人と人をもっと近づけて下さいます。礼拝を通して、自分が社会で何をすればいいかは明らかにされていくでしょう。その使命を果たすのに力がないと嘆いてはいけません。高いところから私たちを覆う力のあらわれはすでに約束されています。誰にでも。