6月4日 ローマ8章26節―28節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「祈りの深み」

 人生には、自分の苦しみを一緒に共感して下さる存在が必要です。パウロは御霊がうめくと言うのです。わたしの苦しみをともに苦しみぬいて下さるのは聖霊だというのです。信仰があっても苦しい時は苦しい。神を信じていても何をどう祈ればいいかわからないくらい追い詰められる弱さを持つ私たち。私たちが祈れなくてもいい。聖霊がわたしの代わりにわたしとともにわたしの中から祈り出して下さいます。言葉にならない叫びを通して。

 

 祈りとは、自分が神に祈ることと言ってしまえばそれまでです。もしも、それだけの話なら祈れない気持ちになった時点で行きどまりです。しかし、祈りの神秘はもっと深いところにある。聖霊なる神が父なる神に祈るのです。誰にも入れないはずの深い神の相互の交わりの中に、私たちが居合わせる。しかも、私たちの口が用いられる。祈れない者がなお祈れるように、身をかがめるかのように私たちの深みにまで下りてきて下さる方がおられるのです。

 

 そもそも、自分の力で祈るだけだとすれば、神が喜ぶ正しい祈りができているか怪しいものです。ところが聖霊が神に祈るとなれば話は別でしょう。この祈りは絶対に間違えるはずがない。的をはずすわけがない。わたしに最も必要なことを、わたしが気づいていないことまで的確に神のもとに必ず運んで下さることでしょう。この祈りは確実に聞かれます。当然でしょう。神が神に祈るのですから。天に直結です。こんなにも心強い助けはありません。

 

 とりなすとは、将来を向く姿勢です。現状がどういう悲惨な状態であれ、そこにとどまったりはしません。絶望もしません。あきらめもありません。自然界は人間の罪によって傷ついているかもしれない。全人類も救いの完成までは苦しみを通ります。しかし、聖霊が将来を向いている以上、力を落とすのはやめていい。御霊の祈りによって、不純物が取り除かれるようにして、希望だけでひとすじに生きられる体験ならいくらでも証ししてみせましょう。

 

 この希望の根拠はもちろん神です。万事を益となるように変えて下さる神です。しかし、誤解してはいけません。万事が益になるとは、私にとってすべてが都合よく収まるということではないはずです。私の願いなどもはやもうどうでもいい。私の不都合など小さいことです。主語はどこまでも神です。神にとってすべてが益になるように計画されているのです。そもそも神の計画の実現を喜べないような信仰ではかえって困るではありませんか。

 

 しかも神は計画をおひとりで実行しようと言うのではありません。共に働く者を召すのです。神と人の共同作業です。なんと恐れ多いことでしょうか。なぜ、わたしごときをと言ってはいけません。神があなたを愛しておられる。理由はそれしかない。愛するからこそ、計画達成のために、悪いがともに苦しんでほしい。ともに泣いてほしい。共に傷つき戦ってほしい。応えてほしい。それが生きる意味だ。見込まれた以上、断ってはいけない。

 

 愛するとは、わかちあうことではないでしょうか。神がわたしを愛しておられることはどこでわかるのか。やはり主の重荷をともにわかちあって欲しいとの呼びかけにおいてではないのか。実際、愛する者には遠慮なくすべて胸の内をさらけ出すものではありませんか。ならばこのうめきは自分のうめきだけで終わるわけがない。主よ、なぜですか。ここまでして罪深い私たちを信頼なさるのは。この愛が注がれる時。変わります。うめきは感謝に。