6月18日 ルカ15章11~24節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

見つかったのだから

 

 自分とは何者か。アイデンティティとも言いますが大きな問いです。今日の話もアイデンティティの喪失が関わっています。祖国を失い、礼拝の中心地である神殿を破壊され、異国に連れて来られて70年。どうやって神の民としてのアイデンティティを保つことができるでしょうか。ところが、神はいきなりペルシャ王クロスの心を動かし始めます。さあ、神の民よ、地元へ帰還せよと。預言者エレミヤの言葉が実現し始めた瞬間でした。

 

 私たちも時に何もかも失います。生活が激変したまま、いつまでこの状態が続くのかと呻きます。自分を肯定的に見られないほど追い詰められます。しかし変わらないものがある。み言葉の約束です。神の民とは聖書の民なのです。しかも、み言葉を単に個人の魂に安らぎを与える程度のことに限定してはいけません。生ける言葉は施政者の心さえ動かし、ダイナミックに歴史を形作っていく。何を失おうと私たちのアイデンティティはみ言葉にあります。

 

 そもそもクロス王はなんのために帰還を命じるのでしょう。主の宮である、エルサレム神殿の再建のためでした。彼は主を信じる者ではありませんが、征服した諸民族の信仰を重んじる立場にいたのです。神殿のための帰還。それはユダヤ人にとっては神を礼拝するために向かう旅となります。とは言え、ユダヤ人の全員が帰還できるわけではありません。帰れない者は、捧げものによって帰国者と神殿再建計画を支援するように促されています。

 

 私たちも今日、礼拝の民です。それは神のもとに戻るようにとの主の愛の呼びかけがあったためです。人生で失った様々なアイデンティティも、自分探しも、礼拝者としての真のアイデンティティを得るための旅のプロセスだったと言ってもいい。それどころか私たちは神の国の奉仕者として召されています。何をするかは人それぞれとしても、主はそれぞれの人生に主のために用いられる機会を等しく用意しておられるのです。あなたの人生にも必ず。

 

 しかも、かつてバビロンによって戦利品のように奪われた礼拝のための道具がありました。バビロン捕囚の際、宗教家は失職しました。祭司が使う礼拝用具もすべて意味のないものになったのです。これらの多量の主の宮の器はこれまで長い年月、他宗教の宮に管理されていましたが、クロス王はこれらをユダヤ人に返還します。礼拝用具を元あった場所へ。本来の用途へ。まるで今までの管理場所はふさわしくないと言わんばかりではありませんか。

 

 バビロンにイスラエルが滅ぼされたとは、イスラエルの神がバビロンの神に負けたことを意味します。ペルシャの支配に変わろうと、イスラエルの神が負けている点は同じです。それはイスラエルの罪ゆえですが、神は神の民の罪を背負うため、自らが辱められることをよしとされる神なのです。神を単に成功や勝利主義と同一視しやすい私たち。いいえ。負けや失敗や苦難。そこから深められていく信仰のアイデンティティもある。

 

 わたしが何かに敗れた時、神もわたしの破れを負って下さる。わたしが信仰のアイデンティティを喪失した時、神も今までのイメージとは違うあり方で関わって下さる。わたしが辱められる時、神もともに辱めに甘んじて下さる。それが自分の罪から出たことであっても、それでも神は突き放したりはしない。自らのあり方を変えてまで関わって下さいます。こんな神がいったいどこの世界にいるでしょうか。