6月25日 エズラ2章1節―70節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「どんな環境でも」

 人の名前の羅列や、人数ほど無味乾燥なものはありません。しかし、読みようによっては味わい深いのです。ここにあるのは異国からイスラエルに帰還した者のリストです。しかも、それぞれの氏族の子孫の数が数えられている。どうしてかというと国が奪われたからと言っても、約束の地に嗣業を与える御言葉の真実は今でも有効だということだからです。だからこそ、この土地は誰誰の子孫にと確かめる上でもリストはどうしても必要でした。

 

 私たちには土地はじかに関係しません。しかし、信仰を親から子へと継承させるという点では今も学べることはある。子どもや孫が信仰を持っていないという痛みは確かにあるでしょう。けれども、神はどんな過酷な異教世界の環境の中でも、よくぞここまでと思うまでに信仰を継承させておられました。ここに主のあわれみを見るのです。問われるのはわたしの信仰です。どこまで主の憐れみを信じているのか。主はその祈りにこたえて下さいます。

 

 もっともバビロン捕囚によってすぐに職を失ったのは宗教家です。神殿もない異国で祭司であることになんの意味がありましょう。祭司の数が極端に減っているのはその過酷な現実を物語っています。また奉仕者であるレビ人の数の減り具合も目を覆うばかりです。しかし、少なくともここにリストアップされた者たちは、いつでも礼拝が再開できるように厳しい状況で、伝統を伝えながら、準備していたということになりはしないでしょうか。

 

 環境と言う点では、クリスチャンの少ないわが国も、決して生きにくい環境とは言えない。現実に心ならずも牧師を辞める方もいる。信仰から離れていく者もいる。それくらい過酷なのです。しかし、一方でいつでも礼拝の奉仕ができるように自分を整え、自分を磨いている者もいるのは確かです。主の奉仕のために向上心をもって、地道にコツコツとひそかに取り組んでいることは決して無駄にはなりません。あなたもそのリストの中に入っています。

 

 しかも、この奉仕者は血筋にはよりません。実際、宮に仕えるしもべたち、ソロモンのしもべたちと言った人々はユダヤ人ではなく、外国人なのです。礼拝共同体とは様々な人々からなる集団なのです。一方でたとえ、ユダヤ人であったとしても、氏族と血統が明らかではない者がいる。つまり信仰が継承されていない者もいるのです。信仰とはそれぞれの主との関係であって、それ以外の要素では、決してはかることができないものなのです。

 

 教会とはただ信仰によってのみ結びついている共同体なのです。血は関係ない。違いは理由にならない。信仰以外の要素で固まろうとする時に、そこには異質なものがまざって教会が教会に似た何かに変わってしまうでしょう。けれども、それぞれがイエス様に対する献身をあらわす限りにおいて、どんな過酷な環境に身をさらしたとしても、教会は教会として立ち続けることでしょう。主の教会は主が支えます。そしてあなたも教会の一部なのです。