7月2日 エズラ3章1節―13節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「主は将来を創られる」

 1988年7月は私たちの教会の礼拝が始まった時です。この記念すべき月にふさわしい聖句が与えられています。異国から帰還したイスラエルの民も、ひとりのようにエルサレムに集まって主への礼拝を始めます。まだエルサレムの神殿は再建されてもいません。何も整っていない状態で礼拝が捧げられる。しかも燔祭が捧げられる。焼かれる動物犠牲は、私たちのすべてが主のものですとの愛の告白です。主の愛に答えようとする愛が見られます。

 

 何よりも、出エジプト記やレビ記の律法に基づいて、礼拝が再開されたことそのものが恵みでした。私たちも礼拝を知らずに生きてきました。しかし、礼拝とは聖書に書かれた、人として当たり前の姿なのです。何も新しい習慣が始まったわけではない。主の恵みによって、本来の生き方が戻ってきたのです。無駄な時間だ、無意味な犠牲だと人は言うかもしれない。いいえ。主の愛を知れば知るほど、私たちはどんな犠牲をも惜しくはないのです。

 

 礼拝があってこそ、神殿の基礎工事も意味を帯びてくるわけです。主の宮の基礎が据えられた時、祭司とレビ人によって賛美が捧げられました。この賛美は、なんと400年も前のソロモン王の時代、最初の神殿が建てられた時に歌われた賛美と同じものでした。考えてみると、この間、イスラエルは苦難の連続でした。いろいろな歴史の波にさらされてきたが、主の恵みといつくしみは変わることがなかったと、心から歌うことができたのです。

 

 私たちは、大変な目にあうと、主の恵みがわからなくなることがあります。なぜ、イスラエルの民は大変なところを潜り抜けながら、主の恵みに立てたのでしょうか。それは罪の自覚の深まりによってとしか言いようがない。己の罪を嘆く者だけが身に染みる神の愛と恵みの世界がある。罪ある者をゆるし、立たせ、回復させて下さった神のみわざがある。罪あるところに恵みが満ちる。誰もがアメイジンググレイスと歌わずにはにおれないのです。

 

 とは言え、神殿の基礎が据えられた時の人々の反応はそれぞれです。老人たちは泣きました。かつての壮麗な神殿を知っている世代としては、基礎を見てショックを受けたのでしょうか。自分たちはこの程度のものしか建てられないのかと思ったのでしょう。若い世代は喜びました。やっと自分たちの宮ができるという喜びに沸いたのでしょう。しかし、嘆きも喜びも同じ主に向けられたのであるなら、意味はあるのです。

 

 自分はこの程度の奉仕しかできないと申し訳ない気持ちで嘆く人もいるでしょう。かつてはもっと色々なことができたのに。自分の奉仕はこれで精いっぱいだと満たされている人もいるでしょう。そうではありません。神があなたの奉仕を用いる以上、自分の限界以上の結果が必ず与えられると信じることもできるはずです。自分の限界はここまでと勝手に線を引くこともないはずです。主のわざは自分の思いをはるかに超えるのです。

 

 なぜなら主は将来を創られる方だからです。私たちは現時点のことだけを見て悲しみ、喜びます。しかし、それは大きな主の計画のプロセスの一部にすぎないのだとどこかでわきまえておきましょう。その先があるのです。悲しみはやがて喜びに変えられます。喜びはさらなる喜びへと高められます。私たちが主のためになしたことは無駄ではない。教会の29周年もプロセスにすぎません。ここが終点ではない。わたしたちの目的地は永遠なのですから。