7月16日 エズラ5章1節―17節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「根拠はどこに」

 教会には信仰的に燃えている時期もあります。停滞していると思われる時期もあります。せっかく勢いづいていた神殿再建工事も、敵の妨害によって中断します。これによって当初の熱意は次第に冷めていったようなのです。この足踏み状態を打ち破ったのは、預言者ハガイとゼカリヤによる預言でした。どんな時代も眠る民の目を覚ますのは神の霊の激しい働きです。鋭い緊急性をもって告げられる今必要な神からのメッセージです。

 

 私たちの霊的状態も停滞する時があります。あんなに燃えていた信仰が様々な事情で潮を引くように冷めていくのです。だからと言って、神様まで冷めているわけではないのです。神様までが計画をあきらめたと考えてはいけません。神の霊は私たちを奮い立たせようと常に働いています。誰かについた火は飛び火していきます。主の励ましを受けて、もう一度取り組もう、もう一度やる気を出して立ち上がろうという者を主は探し求めておられます。

 

 がぜんやる気を出したイスラエル。不思議なのは彼らがペルシャ王の工事再建許可が下りたので、改めて取り組み始めたのではないことです。たとえ状況が悪かろうと主が主導権を握っていると信じたからです。許可にないことでしたので、当然、川向こうの知事、タテナイとセタル・ボズナイが異変に気付き、現場にやってきます。責任者は誰だと問うのです。しかし、彼らは工事をやめさせることができません。主の目が注がれていたからです。

 

 知事たちはペルシャ本国に手紙を書いて、対応を求めます。しかし手紙の内容は批判めいたものではありません。ユダヤ人の工事の熱心さも、はかどり具合も、さらにその信仰の行いは罪の悔い改めに基づくものだとも、はっきり認めているのです。要はイスラエルのしていることは聖書の神を信じていない知事たちにも証しになっていたということです。できるならこの工事を最後まで応援したい思いまで感じられるかのごとき手紙の書きぶりです。

 

 主の目が注がれているとはこういうことなのでしょう。主の好意があるところでは、どんな困難や妨げがあろうと道は開かれていきます。どんな危険があろうと、主の守りがあります。それどころか、信仰を持たない一般の人にまで証しになり、その実現を応援したくなり、主のわざに巻き込んでいくかのような協力まで不思議に与えられます。慎重であることは大事ですが、あまりにも慎重すぎて、信仰がどこにあるのかわからないような態度は不要です。

 

 知事たちはユダヤ人が申し述べたことを手紙で確認しようとしています。この神殿再建工事は、ペルシャの数代前のクロス王の命令を受けてのことです。勝手に始めたことではありません。王の代が変わって、伝わっていないかもしれませんが、確かにクロス王から出たことだとご確認くださいと。これは工事を止めようとする考えではありません。むしろすべての不安材料を取り除いて、工事を前に進めるための確認を現在の王に取ろうと言うのです。

 

 神様から始められたことであるなら、信仰的に大胆に進めていっていい。確認がとれていないから。不安材料があるから。そういうことを理由にする必要はないのです。困難がないとは言いません。踏み出すなら確認はきっと後からついてきます。状況の良しあしが決断の根拠ではない。違うのです。ただ、神が語られる言葉と神の霊が主導権を握っていることを信じているのが信仰の共同体のはずではありませんか。そこに逃げもあきらめもありません。