7月23日 エズラ6章1節―22節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「過去も現在も未来も」

 人生には何かを探す要素が必ずあります。ペルシャ王ダリヨスも探しています。エルサレムからの手紙を受けて、過去の記録を探しているのです。本当に過去の王がエルサレムに神殿を建てよという命を出したかどうか。前例主義で行くと記録にないことには許可が出ません。バビロンからは見つからない。スサにもない。エクバタナにある書庫からついに記録が出てきます。確かにクロス王からの命です。はっきりとした証拠が出てきたのです。

 

 その記録はユダヤ人にとって想像以上だったでしょう。神殿の高さまで決まっています。しかも工事費用はペルシャの国庫から賄うとまで記録されていました。またこの工事を妨げようとする者は罰せられると敵をけん制することまではっきり書かれているではありませんか。考えてみると現在の王、ダリヨスが自分にとってさほど益にもならないものを、ここまで真剣に探し出し、見つけ出したことが不思議でもあり、驚きだったとも言えます。

 

 私たちが信仰の行き詰まりを感じる時。それでも、できることはあります。過去を問うことです。信仰者にとっては過去とは神がいかに恵み深く自分たちのうちに働いて下さっていたかを思い起こすことでありましょう。同時にそれは罪深い歩みをしてきた自分たちへの神のあわれみを見出す心の旅でもある。主の恵みとは信仰のない施政者であっても、はっきりと認めざるを得ないほど現実の記録に残るくらいに具体的なものなのですから。

 

 この公式記録の発見によって、神殿再建は正式に認められ、長い月日の末、ついに完成するのです。神殿完成の際、イスラエルの民は二つの祝いをします。それは神殿奉献式と、過越の祭でした。神殿奉献はソロモンの最初の神殿が捧げられた時に則って行われました。また過越は、長い間、中断されていた祭が、再び始まったことを意味します。本来、出エジプトを記念する祭に、バビロンからの解放も重ね合わされ、祝われたのです。

 

 信仰とは、単に過去を振り返るためのものではありません。もちろん、信仰の根も原点も過去のある時点にある。しかし、それ以上に信仰とは常に今を問う作業なのです。自分にとっての今。今、リアルタイムで神がわたしにして下さっている恵み。昔も今も変わることなく、生きておられる神。単に先祖にとっての神ではない。わたしの神。今のこの共同体にとっての神。この意識がない以上、過去を記念し、祝うことになんの意味がありましょう。

 

 この信仰は今だけでは終わりません。現実には信仰共同体は二部族しかいないのです。にも関わらず、イスラエル12部族のために犠牲を捧げました。とりもなおさず、それはやがてここに加えられるであろう神の民の全体を意識した礼拝であったということです。懐古趣味どころか、現状維持どころか、明らかに神が創造される未来に目を向けていることがわかるのです。来るべき世界が礼拝において、もう動き出そうとしているのがわかります。

 

 私たちの礼拝は単に過去の主の恵みを懐かしむためだけにあるのではない。今の自分たちさえよければいいという現状の満足のために捧げられるものでもない。過去も現在も将来も貫く永遠の神がおられる以上、過去から将来への線は礼拝においてこそ伸ばされているはずでしょう。やがてこの共同体に加えられる将来の神の民をお迎えするために、私たちは何から始めましょうか。どこから変えていきましょうか。求められているのは信仰です。