9月3日 詩編94

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「光放て」

 穏やかではありません。神に報復を訴えているのですから。実はこの激しさも、神が正義を実現して下さいますようにとの期待の表れなのです。やもめ、みなしご、外国人の寄留者。社会的な弱者が権力者の手で踏みにじられています。彼らは誰も見ていないと不正に手を染め、平気なのです。神も自分たちの悪を見ていないからと好き勝手をしている。この暗闇の中で、踏みにじられている者の側に詩人は立ちます。主よ、光となって下さいと。

 

 私たちの時代にも闇があります。弱い立場の人が踏みにじられている現実。世の中など弱肉強食だ。こういうものなのだと悟りきってはいけません。悲しいことに私たちは慣れてしまいやすいのです。悪にも闇にも不正にも異常なことにも。しかし、正義はどこにもないのでしょうか。正義の実現を信じることは夢物語なのでしょうか。違います。自分にもどうにもならない、もてあまし気味な思いであっても何もかもを正義の神に訴えていいのですから。

 

 たとえ時代の闇が深まろうと焦ることはやめにしましょうか。なぜなら、神に逆らう人の思いがいかにむなしいかを私たちは知っているからです。いつになったら彼らは悟るのだろうか。もっとも人間とはそこまで心が鈍いということでしょう。どれだけ悪が繁栄しているように見えようと、そんなものは一瞬のことに過ぎない。むしろ、主のみ言葉から教えられる人は、どういう災いが押し迫ったとしても、心の深いところに平安が与えられるのです。

 

 信仰とは何か行動に移すことだと考えがちかもしれません。もちろん、それにも一理あります。しかし、行動主義にも落とし穴はあるでしょう。案外、あくせくと動き回ることが実は深いところで神に信頼を置いていないこともありえるからです。むしろ、み言葉のうちに心に平安を与えられ、黙って主を待つことはできないのでしょうか。焦らず、あわてず、主がなさろうとすることを見届ける。主が働く余地を想定する。祈りから生まれる姿勢です。

 

 ただこの詩人は、いつも沈着冷静だったわけではありません。わたしの足がすべると思った時と告白しているではありませんか。何度も不信仰になった。何回も転びそうになった。今までどれだけつまづきそうになったことかと正直に打ち明けています。彼は足がすべる悲しみを知りぬいている人なのです。しかし、そのすんでのところで神のいつくしみに支えられてきた恵み。そういう体験を通ってきた者としての祈りがここにはあります。

 

 神は足がすべりそうになる人の神なのです。わたしが転ぶはずがない。つまづくわけがない。挫折など無縁だ。こう豪語する者には神は不要でしょう。むしろ不信仰に流されそうになる弱さのさ中に主の支えの手は伸ばされます。ならば、相手をゆるせと強引に強要することもないのでしょう。事実、詩人は自分でもまだ整理できない激しい感情も闇もかかえたまま、神と向かい合います。大丈夫です。それでいいのです。今は光なる主を待ち望め。