9月10日 詩編92編

 

 礼拝に来るのが楽しくて仕方がない様子が伝わってきます。朝に夜にとあります。何日も続く祭りで歌われたのでしょう。様々な楽器を奏でて賛美したのでしょう。何がそんなに楽しいのでしょうか。主のみわざそのものが、です。主によって救われた事実が、です。わたしは、こんなにも主によくしていただいていますと言いたくてうずうずしているかのようです。その主にお会いするわけですから、歓声の声になるのも無理はありません。

 

 貴重な人生です。誰だって楽しく生きたいに決まっています。何もわざわざ悲しみや苦悩に憧れることもない。とは言え、楽しければなんでもいいのでしょうか。その場だけ刹那的に憂さを忘れられる程度の刺激や気晴らしでもいいのでしょうか。もっと深い楽しみがあるなら、間に合っていますと言えるでしょう。主に感謝する楽しみは消えません。恵みを数えれば数えるほど、人生を重ねるほどその喜びは日を増して深まっていくことでしょう。

 

 だからと言って、詩人の人生にわずらわしいことが全くないなどと能天気なことを言うつもりはありません。神なき者が、悪人が栄えているかのように見える現実は確かにあるのです。人間関係の中でつらい思いに陥ったこともないわけではない。もっともその事実そのものによって振り回されることもない。心揺らぐこともない。かえって確信に満ちて、主が今のままで終わらせられるはずがありませんと知っていますと言えるのです。

 

 なぜでしょう。主によっていのちの力に満たされていく実感があるためです。角は古代の世界では力の象徴、救いの象徴です。それだけではない。新しい油とあるように力だけではなく、主からしか頂けないものが加算されていく。どこででしょうか。礼拝においてなのです。神を賛美する場においてなのです。たとえ、しおれていたように見えたとしても、礼拝においていのちにあふれていく。まるで充電のように。給油のように。主のお取り扱いの中で。

 

 生きる力が必要だと誰もが実感しています。ストレスに満ちた現代社会の中で生きにくさを感じる人は大勢います。生きるとはなんと力のいることだろうかと。いのちをすり減らす脅威は満ちています。だからと言って、勘違いしてはいけない。生きていく力は自分のうちになにひとつ根拠を持たない。それはただの能力でも処世術でもバイタリティの資質でもない。力はただ主からやってきます。この方を仰ぐことなしに生きる力は得られません。

  

 しかし、主との直線距離にいるような主の義の支配に生きる者は、年を経ても実を結ぶと告白されています。なつめやしや杉のような成長があると言うのです。これは年配になってもいつまでも若々しいという意味では必ずしもないでしょう。年齢とともに肉体が衰えていくことは避けられません。何かを失うこともあるはずです。若いときは容易にできたことが、加齢のために困難になる。それは誰もが、いつかは通る道ではあるのです。 

 

 生きる力とは、より本質的なものに目を向けることと関係があるのではないでしょうか。いろいろなものが奪われる。失われる。衰えていく。そこだけに気を取られる必要はありません。むしろ、今までお世話になってきたものが削がれていくときに、そこにあるのは痛みだけではありません。喪失感だけでもありません。より大切なことが得られる喜びが主によって与えられます。主とともに老いよ。より深い、円熟された喜びはそこにあります。