9月17日 詩編95編

  今日、神のみ顔の前に出るように。詩人は私たちを招きます。救いの神です。人生の堅固な岩である神です。賛美を歌いながらこのお方の前に出るのです。礼拝とはそういう場です。しかし、そもそも私たちは神様の前に出られる存在でしょうか。むしろ神を避け、神から逃げ回り、神を意識することを恐れ、自分の人生は自分で決めるとばかりに勝手に生きようとするのが人間ではないでしょうか。もしも、そういう者が神のみ前に出られるとするならば、それは神に招かれてとしか言いようがない。神の深い恵みによってとしか答えようがないのです。

  

考えてみると、自分の人生と言いながら、自分の思い通りにならない人生を生きているのは私たちです。人生どころか自分の顔ですら、自分で見ることはできない。間接的にしか覗けない。わたしの顔に限りません。わたしの全存在は、わたしの全生涯は神のあたたかいまなざしを受けていることから人生を考え直しましょうか。なぜなら、この方はわたしの救いの神なのですから。神なしに生きられないほど、私たちの歩みは御手の中にあるとしたなら、神への感謝が生まれ、賛美が生まれ、歌が生まれる心のありようは、よくわかるのです。

  

告白はさらに続きます。主は天地万物を創られたお方だと言うのです。もちろん、ここにはわたしを創られた神という感謝も大前提になっています。われらの創り主とある通りです。ここでは地の深いところ、高い山の頂、海が出てきます。当時、これらは神の支配領域ではない不気味なところという理解があったためです。違うのです。私たちの理解の及ばない、手の届かない、コントロールのきかないところ。思いもよらないそこでさえ、主の主権の下にあるのです。弱い羊のような私たちも、このような力強い神の手で養われています。

  

ある面では私たちの人生も不気味なのです。先の予測が必ずしも立つわけではありませんし、おそろしい力に屈服させられそうになる。私たちの手ではどうにもならないことに襲われ翻弄される。ある方にとっては病がそうであるかもしれません。災害がそうであるかもしれない。そしてもっとも不気味なものとして人生を不意に襲う死。誰がこれらのものを治めることができるのでしょうか。創造の神、救いの神をおいて他にないではありませんか。そこに主もともにおられる。主の主権の下に生きる自覚が生まれてくるなら、必ず何かが変わります。

  

しかし、人間は愚かです。今日こそとここでは歌われています。今日こそと言うからには、今までは間違えてきたのです。これまでは失敗してきたのです。ここまでは罪を犯してきたのです。今まで、できずじまいだったこと。そういう苦々しい、つらい思い出がまとわりついている。メリバやマッサとはそういう罪を思い出させる地名です。神に対して心をかたくなしにし、従うことができなかった。これが人間の実態でしょう。しかしそういうどうしようもない者に新しい今日が神に与えられている。これも恵みの事実なのです。

  

たとえ、今までの歩みがどうであれ、主は今日を用意して下さる。今日、決断ができるように。今日、選択ができるように。そのチャレンジの機会が備えられている。礼拝への招きにおいて、その決断が今日起こるかもしれない余地はいつも開かれている。今までどうせこうだったから、これからも同じだと運命論は成り立たない。ずるずると優柔不断に引き延ばしていたことでさえ。こういう恵み深い呼びかけにどう応じたらいいでしょうか。出ましょうか。神の御前に。わたしの人生はあなたのものですとの告白とともに。