9月24日 詩編97 

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

蒔かれた種

 

どういう辺鄙な場所に住もうと現代社会は世界とつながっています。半径数キロの生活であれ、スーパーには外国産の食材が並びます。今やITは世界中とアクセスが可能です。信仰をもって変えられることのひとつは広く世界を意識するようになることではないでしょうか。ここでは主は世界の王として現れると歌われています。ですから海沿いの国々まで主の影響を受けるのです。ここでは地の果ての地域という意味合いがあります。

 

もっとも主は雲と暗闇の中におられるのです。その全貌をつかむことはできません。偉大な主が全貌を現わされたら、ちっぽけな人はどうなってしまうかわからない。そう思うと闇に隠れてあらわれるのも主の私たちへのご配慮でしょう。それでも、主の火は敵を焼きつくします。稲妻に人はおののきます。山もまるでろうのように溶けてしまう。主が働きかけるとき、どんなに手加減しようが、とんでもない変化が私たちの世界に起こるというのです。

 

私たちは主の偉大さを改めて知りたいのです。この方を単に私の個人的な神とするだけでは、あまりにも割引いた考えではありませんか。むしろ、王として世界を治める方が、わたしの個人的なちっぽけな問題にも同時にかかわって下さる不思議さにおそれおののくような気持になってもおかしくはありません。主を信じた瞬間に、わたしも神の民として世界に、社会によき影響をもたらすように召された自覚が芽生えてくることでしょう。

 

ましてや黒雲に隠れるほど見えない神を目に見える偶像に引き下げるのは愚かです。私たちは勘違いしやすいのですが、キリストさえあがめてさえいれば安心と言えるのでしょうか。間違った、誤解した、不明瞭な、もっと言うと自分にとって都合のいいキリスト観で主をあがめているとするならば、それもある種の偶像崇拝になってしまわないのでしょうか。しかし、主の訪れが起こるなら、間違った考えの持ち主でもひれ伏すしかなくなります。

 

とにかく、礼拝に出ることです。ここではシオンの娘たちもエルサレムの神殿へと向かいます。遠くの地方にいる者でさえ、距離をものともせず、主の前に出ます。主に思いを向けるのです。主に思いを向けるとは、とりもなおさず、世界のために将来を備えられる主に期待することです。今すぐに急激な変化は起こらないかもしれない。しかし光がすでに種のように撒かれているというのです。撒かれている以上、必ず収穫の日はやってきます。

 

がっかりしてはいけません。悪はずっとそのままだ。不正はまかり通っている。社会の混乱はとどまることを知らない。だからこそ、希望があるとするならば、主こそ正義である一点においてなのです。まだわからないことは多くあるにせよ、わかっていることもある。すでに主が撒かれた種がわれわれのうちに育っていること。この恵みを知る者はうちひしがれたままではいられません。心を高く上げて、全世界の希望である主を喜び歌え。