10月1日 詩編98

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

確かに主が来られる

 

歌えと詩人は促します。歌が歌われるのは喜ばしいときです。歌わずにはおれない心地なのです。新しい歌とは新曲ではありません。主がなされた不思議なみわざに対する新しい歓喜の声なのです。主は苦境の中にいる私たちのためにも生きて働かれ、明らかにこれは主だとわかる不思議なみわざで救って下さるお方なのです。主がどういう方かを誰かから聞いたという話ではない。わたしの目の前で、主がわたしにして下さった体験に基づき歌うのです。

 

もし、私たちの生活から賛美の歌声が消えているとするなら。喜びがないからかもしれません。なぜ、喜びがないのか。主があなたになされた不思議なみわざがわからなくなっているからとも言えます。不思議なみわざがどこにもないということではない。わたしには現わされていないということでもない。ただ、見えなくなっているのです。救い以上の不思議なみわざはないのですから。救いが喜べないなら、そちらのほうが問題ではありませんか。

 

この時、イスラエルは苦境の中にいました。当時の列強諸国の中にあって、吹けば飛ぶような小さな存在に過ぎなかった。群雄割拠の中で、力こそ正義の価値観がまかり通っていた。そのまま、歴史のかなたに消えていってもおかしくなかった小国。そういう共同体がいのちをつなぐことができたとするなら、それこそ神の不思議なわざでなくてなんでしょうか。もっと言うと力が正義とは限らないと、主がはっきりと証されたのでなくてなんでしょうか。

 

私たちも時に揺らぎます。弱肉強食のせめぎあいの中で、自分の無価値観にあえぐこともないわけではない。弱さや無能さを指摘され傷つくこともある。しかし、神はそのような視点では決してあなたをご覧にはなられないのです。むしろ、生きよと励まし、あなたを支えると声をかけられる。最も打ちひしがれていた者でさえ、喜びのあまり歌わずにはおれないような、新しいことが主にあっては起こるのです。絶望する必要はどこにもありません。

 

絶望しないということは将来を見つめるということでもあります。単に甘い希望的観測で現実逃避せよということではありません。希望の根拠はただ主にあります。確かに主が来られる。この一点においてのみ希望は確かなのです。正義をもって世界を治めるためにおいでになる。この確かさのゆえに海も大水も山も自然界のすべてが主を喜ばずにはおれません。ありとあらゆる楽器を用いて、力の限りにこの方を歌わずにはおれないのです。

 

現実には今は不正がある。苦しみもある。間違った価値観が幅をきかせている。しかし、私たちにはもうわかっていることなのです。主が王である以上、決してこのままでは終わらないことを。主に信頼するなら、それはすでに成し遂げられたに等しい。それなら、まだ起こっていない素晴らしいことでさえ、今すでに起きたかのように先取りして主を喜んでもいいではありませんか。現実に振り回されるな。神の民である教会よ、新しい歌を主に歌え。