10月8日 詩編99

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「神は聖である」

聖書、聖歌、聖餐。教会には聖がつく言葉が沢山です。今日、読んだ詩編にも聖がくりかえし出てきます。なんといっても神は聖なるお方なのです。神が聖だとはどういうことでしょう。全く違うということなのです。類比しようがないということです。人とは異質なのです。格が違う。そういう方がケルビムの上に座せられる。シオンにおいて高くあられる。つまり、王として即位なさるというのです。何もかもが変わるのは無理もないでしょう。

 

現代日本人には王はなじみがありません。むしろ、個々人がまるで自分を人生の王としてふるまっているところがある。信仰をいただいても、自分の願望にこたえるのが神だくらいの誤解がないわけではない。全く違うのです。神は異質なお方なのです。自分の望みがかなわないくらいの理由で、信仰につまづいていてはたまったものではありません。王である神はあなたとは全く違うお考えを、しかもそれがベストだという計画をお持ちなのですから。

 

神の聖さの中でも特にここで強調されているのは、神の公平さです。神はおのおのの人に対して公平であることを愛されるのです。義を行うといってもいいでしょう。共同体の中の弱い立場にいる方にしわよせがいくのではない。誰かが誰かの犠牲になるのでもない。これは正直に言えば異質なことなのです。人間だけに任せていれば自然に実現できるというものではない。神の徹底した支配においてのみ、あらわれることなのですから。

 

私たちも社会が公平でないことに悲しみを感じます。正義が踏みにじられることに苦しみを覚える者もいる。こういうつらさを知る者だからこそ、かえって聖なる神に信頼するでしょう。主よ、あなたが王として即位された以上、それぞれが自分の小さい王国を放棄して、あなたのみ前にひれ伏します。そこには自分の思いに固執する以上の喜びも感謝も平安があることでしょう。礼拝に出ることで強められるのももっともな話なのです。

 

ここで詩は一転、歴史を振り返っています。モーセ、アロン、サムエルといった旧約聖書の宗教者。昔はよかったという懐古趣味ではありません。聖なる神が彼らを立てた事実は、彼らを通して聖なる神が民のところにまで近づいてこられた恵みを証ししているからです。もっと言えば、その同じ神が、今日、私たちの賛美にも臨在される。聖なる異質なはずの神が、私たちの近いところにまでおいで下って、いのちの交わりを持とうとして下さる。

 

神は決してあなたから遠い存在ではありません。人間からかけ離れた比類のないお方であるとは言え、あなたのそば近くまで近づいてきてくださるお方でもある。恵みと愛をもって。罪深い者にもゆるしを与えようとして。実際、神は人となられてこの地上を歩まれたではありませんか。聖霊は私たちの心を住まいとされるではありませんか。わたしはいたらないから神はおいで下さらないと言ってはいけない。わたしは主に用いられないといってもいけない。全身全霊でこの恵みにお答えするように問われている。差し出しましょうか。主に。