10月22日 詩編101

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「直き心をもって」

鏡の前で髪を整え、鏡の前で化粧をする私たち。この詩も鏡です。信仰者としてどう生きるのかを指し示す鏡なのです。詩人は待っています。神がいつくしみと公義をもって訪れて下さることを。神に信頼しながら、神とともに生きる道。神がおいで下さらないなら、自分はなにひとつ、やるべきことを果たすことができないと自覚しているのです。直き心とは完璧な人ということではない。神に自分のありのままを知られていることを知る心です。

 

私たちは素顔の自分を誰かに知られることを恐れます。鎧をかぶります。取り繕います。ありのままを知られると軽蔑されるのではないか。隠すのです。ましてや神になど自分の正体を知られたくない。いいえ、違うのです。実は神が自分のすべてを知って下さっていることはこの上もない安心感を生みます。この方の前では背伸びする必要がない。神の前では隠す必要がない。自分の罪も至らなさも、欠点も。そこまで信頼できれば待ち望めるでしょう。

 

神とともに歩むということは、誤解をおそれずに言えば、主のごとくなりたい憧れをもって歩むことです。そのためには卑しいことを目の前に置かない。神に背く者の行いを憎む。ひがんだ心を遠ざける。むしろ、もっと主を愛そう、もっと主を求めよう。主との交わりにうえかわいていくなら、どうでもいいものと、どうでもよくないものの識別はついていくようになるでしょう。それはやがてふるまいの規範にもなっていくことでしょう。

 

自分のありのままを主に知られているとは、だから、今のままの自分でいいとの開き直る言い訳にはならないのです。罪深い自分を知れば知るほど、汚れた者が主にあって変えられていく希望にどこまでも開かれていくからです。主を信じました。しかし、自分は相変わらずで何一つ変わっていませんと言うなら、いったいなんのための信仰なのでしょう。信仰とはそんなに力のないものではないはずです。本気で主を求めるならわかります。

 

それだけではありません。主を求めるならわかるのです。自分がいったい何をすればいのかを。ですから、ここではリーダーとして所信表明演説のように、決心をあらわにしているのです。一言で言うと、神のいつくしみと正義に満ちた共同体をみんなで造り上げていこうという理想に燃えているのです。そんなことは非現実的だと冷たく笑うべきではありません。幻を失い、倦んでしまう信仰共同体ではそっちのほうこそ問題ではありませんか。

 

これは教会が求める姿でもあります。誰かひとりだけが信仰的に秀でていればいいと言うのではない。ごく少数の者だけが鑑になればいいと言うのでもない。主を信じるすべての者が、もっと主を愛するわけにはいかないのでしょうか。共同体の破れを嘆くわけにはいかないのでしょうか。み国を来らせたまえと祈る以上、ならば、私たちは主に対して何をしましょうか。この所信表明をわたしもと願う、すべての信仰者よ、夢をもって立ち上がれ。