10月29日 詩編102

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「新しく造られる民が」

 赤ん坊の仕事は泣くことです。泣かない子は扱いやすいでしょうが、問題のほうが大きいです。私たちも神の子である以上、神に嘆いてもいいはずです。この詩は詩編の中の七つの悔い改めの詩のひとつです。しかし、ここにあるのは嘆きです。主よ、わたしは悩んでいます。わたしは死にそうです。わたしは孤独です。わたしの敵は酷いことを言います。これも祈りです。泣き声とともに成長する赤ん坊のように、嘆きの祈りは祈りを育てていくのです。

 

 事情はありました。彼は異国の地にあって、エルサレムに戻れずにいるようなのです。解放のときがきて多くの人は帰還していきます。しかし、自分だけが取り残されて叶わないのです。病気のためか、あるいは死期を覚悟しているのか。どういう事情があるにせよ、彼は嘆きます。主よ、あなたの憤りと怒りのゆえです。まるで、自分が今こういうひどい状況にさらされているのは、主よ、あなたのせいですと言わんばかりではありませんか。

 

 自分の願望を訴えることは祈りではないという意見もありましょうが、違う視点もあります。願望を神に訴えて、聞き入れられる体験を通らずして、祈りが聞き届けられない意味付けなどあまりにも高尚すぎて、できるわけがないからです。神に本音でぶつかり、挑み、嘆いて、泣いて、叫び続けて、そのうえでないと願望の祈りが届かない意味もつかめるわけがないのです。神は人のそういう愚かさでさえ受け止めることのできるお方なのですから。

 

 現に祈りは祈りを育てていきます。詩人の祈りも突然、調子が変わり始めます。自分の現状を訴えるところから、全く別次元の領域へと移っていく。そうだ。たとえ、自分が帰還できることがかなわずとも、それが何だ。新しい世代がエルサレムに向けて戻っていく。新しく造られた民がかの地で主を賛美する日がもう来ている。自分たちの世代が成し得なかったことを次の世代が果たそうとしている。その喜びの現実にこそ目を向けるべきではないか。

 

 それはもっと言うと、主が神の民を慰めて下さっている証なのです。ならば、わたしはこの恵みをこそ記録し書きとめればいい。確かに今も自分たちの代だけでできることは限られています。何もかも自分たちで、成し遂げる必要はどこにもない。だからと言ってそれをさみしく思うこともないのです。叶わなかったことを嘆くより、自分に課せられた使命を生きればいい。彼は祈りの中でとりあつかわれ、次第に希望の火が心に戻ってくるのです。

 

 祈りは祈りを育てていきます。自分中心の狭い視野から神中心の広い視野へ。限られた時間軸から永遠へ。はじめから出来上がった美しい祈りなどできずともいい。嘆きからでいい。泣き声のような弱音からでも問題ない。身勝手な願望でさえゆるされる。祈りは決してそこで止まりはしないから。神のおとりあつかいがある以上、必ず祈りは深められていく。人生が祈りを生むとある通りです。とにもかくにも第一歩は主の前にひざますくところから。