11月5日 詩編103

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「主は良いお方」

自分で自分に言い聞かせることにも意味がありそうです。わがたましいよ、主をほめよと。聖なる主を知るとき、誰もが自分の罪の深さを意識せざるを得ません。しかし、それは滅びの予感ではないのです。むしろ逆です。その罪深さにおいてこそ主のゆるしに出会います。病のいやしに出会います。死からの贖いに出会うのです。主はあなたをゆるす神なのです。このゆるしを体験するなら、新しい生きる力に満たされて、羽ばたかずにはおれません。

 

自分ほど罪深い者はいないという自覚もいいでしょう。しかし、それが神はこんな者を救って下さるはずがないというあきらめにはならない。過去はひどいことだらけだったという決めつけもよくない。心の目が開かれれば、あなたを今まで取り囲んできた神の恵みの数々を思い出しませんか。言い聞かせて下さい。必ず恵みを探すと。そのすべての恵みを心にとめたいのです。神が見捨てない以上、人生は捨てたものではないと必ずわかるはずです。

 

いいえ。自分の過去を振り返るだけでは足りません。詩人はイスラエル民族全体の過去から今までを展望します。そこにはある景色は悲しいばかりに汚れた罪の汚点の足跡ではあります。美しいだけの民族の歩みなどどこにもない。過去の美化などできない。事実は消せない。しかし、そこにも美しい花は咲きます。主が民の罪に従って、取り扱われなかった事実。驚くべきことにむしろ、父がわが子をいつくしむようなあたたかさで満ちています。

 

どの国であれ、どの民族であれ、血塗られた闇の歴史を背負っています。自虐史観などという言葉で言い逃れはできない。自分には関係ない話ではすまない。現在は過去の延長なのですから。いいえ。個人であれ国家であれ過去をごまかさず注視した上で、だからこそ見えてくる神の恵みがあるのです。自分にはなんの誇りもないと打ちのめされ、打ち砕かれたところで、そこにまでしゃがみこんでくださる神のあたたかさに触れて立ち上がって下さい。

 

神の恵みに圧倒されてこそ、自分の正体ははっきりとわかるものです。自分などちりにすぎない。草や野の花のごとく一瞬にして過ぎ去るはかない存在にすぎない。たしかに人生などほんの一瞬です。しかし、あろうことか、偉大な神が、そんなちっぽけな存在のわたしに神の全存在をかかたむけて下さる。しかもそのいつくしみは永遠だと言うのです。なぜですか、主よ。なぜそこまでわたしによくして下さるのでしょうかと問わずにはおられません。

 

答えは主は良いお方だから、としか言いようがない。この方には善意しかない。だからと言ってそこには主によくしてもらって当然だという驕りはどこにもない。むしろただ感謝しか生まれてこない。私たちにできることがあるとすれば、この方を自分の全存在で賛美することだけです。詩人とともに私たちも自分で自分に言い聞かせるのです。わが魂よ、主をほめたたえよと。生かされている限り、何があっても止めるな、賛美を。