11月19日 詩編105

ちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「神の民の物語」

アメリカでは家族が集まる感謝祭の季節。日本では年末年始に集まる家族も多いでしょう。教会の暦では11月は既に年末。せっかくです。神の家族の物語を紡ぎましょうか。そこに私たちの人生物語を重ねましょう。救いの物語です。たったひとりのアブラハムから始まります。小さい、数に足りないよるべなきさすらい人。しかし神は永遠の約束をもって、彼と子孫を守られます。それどころか油を注ぐのです。神の物語は小さいところから始まります。

 

私たちも弱く小さい存在にすぎません。社会の片隅で喘ぎ、危機がきたならばひとたまりもない。何が自分の人生を保証してくれるのだろうか。お金だろうか。学歴だろうか。人脈だろうか。いいえ。そんなものが何の役にも立たないことを痛いほど学んできた私たちです。私たちが今まで破滅せず生きてきたとするならば、それはひとえに神の恵みがあったためです。しかもそれは永遠の契約。絶対に変わることのない約束だというのですから。

 

この約束を受けて油注がれた者の子孫は国外で用いられます。ヨセフ。大きな文明国エジプトに突然の国難が襲います。飢饉、今ならさしずめ経済危機です。傾きかけた大国は無名の外国人の神の知恵で持ちこたえ、結果、ヨセフの民族は異国で優遇措置を得ます。しかし、ほっとするのもつかの間、危機を知らない時代の王が立つと、外国人に差別的な政権が誕生。奴隷の立場に身を落とすことになり、ついには身の危険にさらされることになるのです。

 

もしも希望があるとするならば、神は変わることなく彼らの神であり続けたということです。当時、神と呼ばれる存在が奴隷の神にまでなって下さることはありえないことだったのです。神々とは特権階級を庇護する存在。裕福な者を寵愛する存在。しかし、聖書の神はそういうお仕着せのストーリーには目もくれず、国の中の最も小さくされた集団に光をあてるのです。まるで常識的な価値観に異を唱えるように。対抗文化を生み出すように。

 

やがて民族大虐殺の暗闇が身近になった時、神はモーセとアロンを選びます。エジプトからまだ見ぬ約束の地へ。民族大移動の火ぶたが切って落とされる。主も数々の奇跡をもってエジプトを撃ち、神の民を守られます。脱出後も昼は雲の柱、夜は火の柱を送り旅は支えられました。今もイスラエルはエジプト脱出を記念して過越を祝うのは、ゆえなきことではありません。いのちの危機が神の恵みによって過ぎ越されていったとくりかえし語るのです。

 

神の民が語らう時、単純な成功物語の占める位置はない。私たちの過ぎ越しであるイエス様の十字架を見上げる以上、自分たちが罪の中から救われたことは世の中の間違った価値観にノーを突きつける対抗文化の中に召しだされたことをこそ喜ぶのです。ただされるのは弱肉強食社会であれ、経済至上主義であれ高度消費社会であれ。自慢話ではない。過去の美化でもない。ただ神の憐れみをこそ語るために教会は立ち、神の民は生かされています。

 

私たちは永遠の神の契約をこそ語りましょう。われらが滅びなかったのは神の恵みによると語りましょう。それどころか空しい間違った社会通念に背を向け、むしろ対抗文化の物語に生き、神の国の完成に望みをおく、壮大なストーリーの登場人物とされていることを喜びましょう。それはたとえ小さいところから始まろうと、今なお生き生きと進んでいることなら、いくらでも証しし呼びかけるのです。あなたもこの物語の登場人物になりませんかと。