11月26日 詩編106

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「破れ口で」

主をほめたたえよとこの詩編は賛美します。私たちも教会暦の最後の週をハレルヤで締めくくりたいのです。しかし、主の恵みとは裏腹に、ここにあるのは神の民の罪です。忘却、待てない不信、欲望、偶像崇拝。これでもかというほどに人間の愚かさが重ねられていく。これが私たちの姿でもあるのです。こういう醜さが現れたところで、なおも主は恵み深いと言えるのです。自分の罪深さを知らされたことで、かえって身に染みる恵みがある。

 

試みにこの1年を振り返ってみたらいいでしょう。決して模範的な歩みとは言えなかった。必ずしも、主に全幅の信頼を置けたわけでもなかった。恥ずかしいことだらけだったと顔を伏せるしかない者です。そんなことは誰に指摘されずとも自分自身が誰よりも分かっている。底なしの暗闇を抱え持つ者が、その極致にある天の高みからの恵みに生かされている。この事実にこそ心ふるえながら、ハレルヤと叫びましょう。

 

しかし、勘違いしてはいけない。主の恵みとは、何もかもなあなあで済ませる甘さとは全く違うのです。主は罪に怒りを覚える方。主が怒るのですからその怒りはどこまでも正しいはずです。まるで城壁の破損部分から敵が侵入して、壊滅状態になるかのように、主の怒りが臨もうとしている。主の正しさはいつも人の罪と敵対する。もしも、滅びが食い止められたとしたなら、モーセやピネハスのからだを張ってのとりなしの祈りがあったためです。

 

もしも、現代社会に問題があるとするならば、それは慣れてしまうことかもしれません。どんなひどいことにも、悪にも、無感覚になってしまう。麻痺してしまう。そのうちに何も感じなくなってしまう。しかし、それが破滅に向かう兆しでないとは誰が言えるでしょうか。これではいけない。誰かが気づいたならば、危機感をもって身を張ってでも祈りはじめたいのです。何かのために祈らされるとしか言えない体験なら、覚えがあるではありませんか。

 

これでもか、これでもかという罪の歩みをまざまざと知らされると、正直うんざりします。どこにも救いはないようにさえ映る。だからこそ驚きなのです。主は彼らの叫びを聞かれたことが。その悩みを顧みられたことが。そもそもその悩みは自業自得の身から出たサビではなかったですか。だからと言って主はなんとかしてあげずにはおれないと身を乗り出されます。なぜでしょう。その契約のゆえにです。そのあわれみといくつしみのゆえにです。

 

わたしほどの罪びとの祈りなど神はお聞きにならないなどと言ってはいけない。自分の人生など破滅だと見切りをつけて自暴自棄になってはいけない。この方に叫ぶのです。この方に祈っていいのです。罪に苦しめば苦しむほど。主はあなたとの契約のゆえにあなたに対してつねに真実でいらっしゃいますから。必ず助けがあるとどこまでも信じていい。それはあなただけではない。すべての民がアーメンと唱えるその時がくるまで。