12月3日 詩編96

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「主を待ち望むアドベント」

アドベントクランツに最初の灯りが点りました。伝統的にアドベントに読まれてきたこの詩は新しい歌を歌えと促します。希望と喜びの歌を歌えと改めて迫るのです。ということはいつもそういう歌が歌えるとは限らない人生の厳しさが前提となるのです。歌など歌えない暗闇。だからこそ、あえて詩人は言うのでしょう。心を主に向けなさいと。歌はその時、必ず生まれる。クリスマスの無数の賛美が作られるのもゆえのないことではないのです。

 

主に心を向けることを絶対に止めてはいけない。主に心を向けないなら、間違いなく自分に心を向けるしかなくなるからです。人のできることだけに集中するだけなら、壁にぶつかれば絶望しかないではありませんか。自分をどこまでも見つめたところで、一体自分が何様だと言うのでしょうか。自分を取り巻く諸々の困難や問題にではなく、私たちの目を主に向けるのです。そこにしか喜びと希望はないのですから。

 

希望を歌うと言うことは、将来を見ると言うことでもありましょう。もっと言うと終わりに目を向けるということでもある。なぜなら歴史を作られるのは主なのですから。終わりの日に主が世界を正しくして下さることをどこまでも信じることもできるはずではありませんか。目の前のつらいことに一喜一憂するのではなく、すべてが永遠の喜びへと突き抜けていくプロセスだと受け止めることもできるはずなのです。

 

今起きているすべてが途中経過にすぎない。物語で言うなら、まだ最終回を迎えたわけではない。それなら勝手に試合終了にするわけにはいかないでしょう。独断でもう自分はつんだと決めつけるわけにもいかないでしょう。クライマックスはまだ先です。どんな暗い音色も前奏曲に過ぎないのだと言い聞かせるわけにはいきませんか。まだ結論が出てもいないことを早急に判断してしまうことはあまりにも愚かなのです。

 

途中経過であるとしても、はっきりと決まっていることはあります。確かに主が来られるという一点だけは動かない。必ず主の救いがやってくる。ならば、私たちのなすべきことはただひとつ。待つことなのです。主の到来を待つのです。本当に信じている方を待っているのなら決してつらくはない。たいていのことは忍耐できる。何も暗い顔をして待つこともありません。顔を天にあげ、喜びながら、今か今かと心待ちに待てばいい。

 

アドベントは待つ季節です。しかし、正しく言うと、私たちが主を待っていますと言うよりは、もっと待って下さっているのは主のほうかもしれないではありませんか。いつ心を向けてくれるだろうか。いつ気づいてくれるだろか。いつ祈りの声が上がるだろうか。いつ新しい歌を歌いだす決意をするだろうか。そう問うてくださるのはむしろ主です。高く戸をあげよ。2017年、予期しないような特別なクリスマスが今年待っているかもしれません。