12月10日 ルカ2章22節―35節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「安らかに去る」

もう死んでもいい。そう思うほどの心の満たしに憧れます。裏を返すとこのままでは死ぬに死ねないという叫びです。シメオンがそうでした。彼はイスラエルの慰めを待ち望んでいます。おそらく長い間。救い主を見るまでは死を見ることはないと聖霊に告げられていたと言うのです。主の救い主とあります。もしかしたら、長い人生、何人もの自称救い主が彼の目の前を横切り、通り過ぎっていったのかもしれない。しかしそれは主の救い主ではなかった。

 

信仰生活においては、時としてこのようなうえ乾きが起こるものです。自分に与えられた深い使命を自覚するほど、どうしようもない心の飢餓感に悩まされる。聖霊が宿っているとはこういう姿ではないのか。正しく信仰深いとは、これで十分と満足する心とは違うのではないのか。このままでは死ぬに死ねないと、聖なるものに憧れ、御霊とともに祈りながら呻くことではないのでしょうか。クリスマスは自分が喜ぶ浮かれ騒ぎの時ではないのです。

 

それにしても不思議です。シメオンはなぜ、赤ん坊のイエス様に気づいたのでしょうか。神殿には多くの無数の人が詣でているのです。赤子を連れて宮に来る若い夫婦など毎日ひっきりなしだったはずなのに。もちろん、御霊に感じてとしか言いようがない。ここにあるのは何か異常な出来事ではない。山鳩や家鳩しかわが子のために神に捧げられない貧しいカップルが宮に入ってきた。それだけのことに過ぎない。しかしそれだけで十分でした。

 

人となられた神。イスラエルの仲間になられた神。しかも貧しい赤子の姿で現れて下さった神。今も主は普通の姿で、平凡以下の形で、日常の延長に訪れて下さいます。何も特別で異常な出来事を待つことはない。それを悟った瞬間にシメオンは手放します。今までの人生の苦しみも、つらさも、悲しみも、やるせない心も。神の恵みの重みをその両腕に抱きかかえるために。今まで背負ってきたものをもう手放してもいいのです。この方にお会いしたなら。

 

シメオンが老人だったとは一言も書かれていません。あるいは働き盛りであったのかもしれない。それでも彼は言うのです。しもべを安らかに去らせて下さると。いつ死んでもいいという満足感です。それは別の言葉で言うなら、これで本当の意味で生きていくことができるという喜びです。誰もが問うています。生きていく意味を。生きる意味も死の意味も、ただこの方との出会いにおいてのみ、確かなものとされることを私たちは知っています。

 

そこから生まれるのは賛美でしかない。しかもそれはわが子が救い主と知っているはずのマリヤやヨセフも驚くしかない内容でした。万民のための救い。異邦人を照らす啓示の光。神の民イスラエルを超えて。この救いから漏れる者はひとりもいない。偏狭な排除の論理は砕かれていく。ここには誰もが居場所がある。もちろん驚くべき内容であるがゆえに、にわかには信じがたい。だからこそ受け入れがたく、つまづきにもなりうる新しいことなのです。

 

クリスマスは信じられない驚きに満ちています。しかし主には力があります。倒れた者を再び立ち上がらせ、歩ませる力が。それは剣で刺し通されるようなどんな悲しみや痛みでさえ、奪い去ることのできない慰めなのです。実際、教会は今まで何人も立ちあがる人を見てきた。慰められる方を見てきた。あなたが耐えがたい失望感とうえ乾きの中にあるなら、クリスマスはそういう人のためにある。主の慰めに出会うなら、立ち上がれるのです。何度でも。