12月17日 ルカ2章36節―38節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

 「主に出会う歩み」

クリスマスの物語に出てくる人物は、様々な事情を抱えた方ばかりです。人生の重荷とも悲哀とも言っていい。アンナもそうです。彼女は夫に先立たれています。84歳の高齢者が7年間だけしか結婚生活をしていない。夫を亡くして84年とも読めます。当時の女性の平均結婚年齢はローティーン。仮に15歳で結婚したなら、22歳の若さでひとりぼっちになってしまったことになる。子どもはいたのでしょうか。いろいろなことを想像してしまいます。

 

しかし、聖書は端的に彼女をこう紹介します。女預言者と。神の言葉を鋭く語り、人々を慰める者だと。悲哀のない人生などどこにもない。重荷や苦労を背負わない生活などどこにもない。信仰があろうと誰だってそれなりに生きてきた重みを抱えている。しかし決してそれは自分など何の役にも立たないということではありません。あなたの人生そのものが必ず誰かの慰めのために用いられる。み言葉と証があれば。そういうクリスマスにしませんか。

 

彼女の生活パターンは毎日、宮を離れず祈りと断食をすることでした。宮を離れずとは言っても、宮には住めません。ですから老人のゆっくりとした足取りで毎日住まいから通っていたのでしょう。宮では祈りの時間が一日何回と決まっている。しかし老いた歩みで何度も家と宮を往復したとは思えません。おそらく朝、宮に着くと、夕までずっと宮にとどまり続けていたことでしょう。修道院の修道女のような生活を思わせる描写と言えるでしょう。

 

彼女に対して周囲の人は、尊敬のまなざしを向けつつも、どこかで同情を寄せていたかもしれない。ああお気の毒に。なんと不幸な女性だと。しかし、このことしかやることがない人生は不幸だろうか。様々な選択肢に迷い、何もなせない場合もある。いろいろな可能性が失われ、それでも自分にできるひとつのことに思いを向ける人生もある。悲しみが祈りを生んだとも言える。だからこそ全生涯が祈りに貫かれている。こういう歩みがしたいのです。

 

こういう彼女が幼子イエス様と対面します。祈りのただ中で主とお会いしたのです。近寄ったとは言うものの、若者のような速足ではありません。力強い大股でもない。ましてや走れもしない。いつものようによたよたとしたおぼつかないゆっくりの足取りだったに違いない。はやる気持ちがあったでしょうが、駆けつけるのは無理なのですから。心を満たすのは感謝の思いでした。やっと出会えた。この方だ。この方こそ祈り待ち望んでいた救い主だ。

 

私たちもゆっくりゆっくり主に近づいていきます。焦らなくてもいい。あなたの足取りで、あなたの歩幅で、あなたならではのライフヒストリーを背負いながら。人と比べなくていい。人と同じことができなくてもいい。できなくなったことを嘆くよりも、失ったものに心向けなくても、自分のできることを見出し一歩ずつあなたなりの歩みで主に近づいていきます。その歩みが尊い。たとえ、みっともない、恥ずかしい歩みであっても、その道のりは美しい。

 

主と出会った彼女は何をしたのでしょう。語り聞かせたのです。会う人会う人に主の恵みを。説教したなどという立派なものではなかった。世間話のおしゃべりに使われる普通の言葉が用いられているからです。高尚なことは言えない。自分の普段着の飾らない言葉で、救い主に出会いましたと。一度や二度ではない。何度も繰り返しで。老人の繰り言ではありませんが、もうわかったよと周囲が思うほどの熱の入れ方で、同じことだけを語り続けます。

 

私たちの周りにもアンナはいたはずです。主と出会ったと語り続けて下さった信仰者が。教会に何人も。事実ですから押さえようがない。隠しようもない。それどころか語るほどに喜びが満ちていく。喜びはシェアしたくなるからです。そういう証に囲まれて、あなたも主と出会いました。このクリスマス。あなたも誰かにとってのアンナです。わたしも主と出会いましたと。その事実だけを語れ。証を待っている人がいます。あなたの半径数キロにも必ず。