12月31日 第二ペテロ3章3節ー13節

 2017年最後の主日礼拝です。今年、皆さんは誰のどういう言葉を聞いてきたでしょうか。もちろん心に残るあたたかい言葉もあったでしょう。しかし実際は多くの言葉は汚い言葉だったかもしれません。あざけりの言葉。人を傷つける言葉。異論を認めない言葉。ネットの炎上という形でもあらわれますし、パッシングにもヘイトスピーチにもなる。それは深く言うといのちの存在そのものを根こそぎ否定し、消し去ろうとする言葉でもあるわけです。

 

 しかし、意外に思うことはないのかもしれません。いつの時代も信仰者は誰かからあざけられてきた。否定されてきた。それはこの手紙を読むとひしひしと伝わってきます。ただし、そのあざ笑いには実は何の根拠もない。いっときの自分の感情だけで限られた情報だけで、その場の判断だけで、全体像をとらえることのできない、ふわふわとした浅い生き方が浮き彫りになってくるのみです。たじろがず人を生かす、確かなみ言葉に立ち続けていいのです。

  

 では、確かな生き方とはどういう生き方なのでしょうか。一日一日を大切に生きることです。もちろんどう生きたとしても365日の時間量に変わりはありません。しかし私たちは知っているのです。実はその24時間は神の目には千年分にも匹敵する豊かさのある一日なのだということを。与えられている豊かさを決して疎かにはできません。主のみ前に生きるとはそういうことなのです。そういうおごそかさの中を大晦日まで歩んできた私たちです。

  

 主は時間をお用いになるのです。その豊かな時間の積み重ねが、とんでもない実りを生むことでしょう。祈り待ち望んでいたことが花開く瞬間がある。忍耐して思い描いていたことが報われる時がある。今年、教会では聖霊に満たされた者もおりました。この教会への入会をお決めになった方もおられました。長く求めていたものが得られた証は何よりも主が確かな方であることを物語るわけではありませんか。主は生きておられるのです。

 

 それだけではありません。主は今まで誰も見たことのない景色を用意して下さっています。古い世界は純化され、すべてが新しくされていくというのですから。そこには諸天を住処とする悪霊どもの働く余地はもうない。そこには差別も排除もない。ただ主の正義だけが貫かれる神の国が完成する日は必ずやってきます。約束なのだから素直に信じればいいのです。こういう希望を持続させながら、2017年を締めくくってもいいのです。

 

 裏を返すと完成の途上にいる今は忍耐がいる。戦いもある。神とともに苦闘する課題がそれぞれに与えられている。闇しか見えませんと嘆いてはいけません。それはちょうど大みそかのうちに新年が飛び込んでくるかのようにもうすでに芽生え始めている。旧年中に年賀状を書くではありませんか。旧年中にカレンダーを張り替えるではありませんか。心の目が開かれれば見えてきませんか。決定的に新しい時がもうあなたの現実に始まっていることが。