2018年1月1日 マタイ16章13節ー20節

  2018年が明けました。私たちの教会にとって大切な年です。教会30周年の記念となる年だからです。教会とは何か。だからこそ改めて確かめたいのです。物語は旅の途上で起こったことです。人々は人の子を誰と言っていますか。主の弟子が答えます。洗礼者ヨハネ、エリヤだ、エレミヤだ。預言者のひとりだと言っている者もいます。気を付けて欲しいのは人々の評価は彼らなりの主への最大の賛辞では決してなかったという点なのです。

  

 彼らは曲がりなりにも一度はイエス様をメシヤだと認めた群衆です。ところが、どこかで評価が変化した。救い主などではない。よくてせいぜい預言者だ。割引いていくのです。私たちにも起こる危なっかしさです。信仰持ちたての頃は何もわからないなりに純粋だった。うぶだった。ひたすら主を信じていた。ところが信仰の年数が経つに連れて、悪い意味ですれていく。慣れていくのです。せいぜい主とはこの程度だろうと自分で勝手に決めつけて。

  

 洗礼の時が信仰の最高潮で、その後は惰性。その後は停滞。その後は衰退という悲しい信仰生活もないわけではないのです。教会の歩みで言うなら開拓の初期が最高潮で、その後の道のりは神への期待は遠のくばかりという現実だってないわけではないのです。改めて問うてもいいのです。信仰生活とは果たしてその程度のものなのだろうかと。本当は道半ばではないのか。旅の途上ではないのか。ここから開けていく世界があるのではないのか。

  

 そういう退潮ムードの中でのペテロの発言ですから光ります。あなたは生ける神の子キリストです。彼個人の告白と言うよりも十二弟子全員を代表してのものでしょう。あなたがたはと主は問うているのですから。もっともこんな立派な告白がペテロ本人の力だけで出てくるはずがありません。告白を彼にさせたのはあくまでも天の父なる神の恵みのわざなのです。覚えがあるでしょう。こんなことをわたしが言ったのかと我ながら驚くことが。

  

 そうは言ってもペテロの信仰告白もまだ道の途上なのです。実際、最高の信仰告白の後で彼はとんでもない勘違いのメシヤ理解で主に叱責を受けているのですから。今の教会の在り方も道半ばです。足りないところは多くある。間違いもする。理解に欠けたところもある。しかしそれでもいいのです。旅を続ける限り、その旅をやめない限り、教会は成長し続けます。幸いなことにこの旅は主が同伴して下さるからです。今年も、これからも、将来も。

  

 なぜでしょう。主の教会だからです。この教会は私たちの教会ですと言ってもいい。しかし私たちのものということは許されていない。主のものなのです。主が建て上げるのです。岩という解釈は難しいですが、カトリックとは立場は違うにせよ、やはりペテロのこととも素直に読める。しかし一体ペテロのどこが岩なのでしょうか。意志薄弱で、過ちも多く、簡単に主を裏切る彼のどこに岩のような微動だにしない信仰があると言うのでしょうか。 

 

 ここから主の励ましを読み取りましょう。私たちも意志が弱い。私たちも欠けだらけです。私たちも流されやすい。鋼の意志とは正反対です。しかし主は将来を見ています。そういう者が主にあっては恵みによってどこまでも変えられていく。長い旅路の中で成長していくのです。教会とはそういう場だと信じていい。主は変えられ続けていく人を通して、教会を建て上げ続けていかれる。そういう意味ではあなたもペテロになれます。

  

 30周年を記念して見つめたいのは過去と同時に将来ではありませんか。天の門が開かれて、多くの人がここで救いに預かり、人生を変えられ、旅の仲間として加えられていく将来ではありませんか。死の絶望にとらわれていた人が生きる力を与えられる神の勝利をもっと見せていただくためではありませんか。門はすでに開かれている。誰も閉じることはできないのですから。ならば誰でも迎え入れるだけです。この旅に今年も主が同伴者です。