1月14日 マルコ1章2節―4節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「証言する」

何もかもがあいまいな時代です。何が善で何が悪かもよくわからない。生き方の指針もわからない。誰もが迷い、うろたえているように映る。確かなものが欲しいのです。安心しましょう。福音は確かなものです。なぜなら、はるか昔から旧約聖書の中で預言者イザヤもマラキも証言してきたことなのですから。この確かさにかけて、福音を待っていた無数の者に取り囲まれているのですから。この福音は急場しのぎで生まれたものではないのです。

 

私たちの周りにもイザヤはいました。マラキもいたはずです。この福音は確かですと全生涯かけて証しして下さった方が。再臨の主を待ち望みながら、生涯を終えられた方も。福音が真実でないなら、あの言葉は語れなかった。あの生き方は不可能だった。今もこの福音は無数の証言者に取り囲まれながら、輝いています。いいえ、私たちも証言者です。あなたの証言ひとつで人生が変えられる方がいらっしゃるかもしれない。だから黙してはいけない。

 

この新しさの中で求められるのは道を整えることです。もとより私たちは道を整えていることでしょう。今年何をしようか。何を計画しようか。将来のために何から始めようか。けれども考えてみるとそれはすべて自分の道でした。自分が主役の、自分の思い通りになることだけを望む道。しかしここで整えたいのは自分の道ではない。主の道なのです。主が通られる道。この方が人生の主役です。この方に道をゆずり、この方に従えと招かれています。

 

私たちの道であるなら、きっと困難の山は避けたいのが人情でしょう。苦しみの谷を迂回するのが賢明でしょう。しかし、主はその山をも谷をも避けることなく、ひたすら歩んでいかれます。どこに向かってですか。十字架の死に向かってです。苦難を迂回しようとはされないのです。ならば、わたしのために主が苦難を背負われたのだから、自分は楽をして生きようなどとはとても言えない。招かれているのです。主とともに苦難を背負うことさえも。

 

この道を整えよと叫ぶのが洗礼者ヨハネのつとめでした。もっと言うとイエス様到来の先駆として彼は立たされています。興味深いことにマルコはヨハネの前身についても、過去についても、出身地についても黙ったままです。まるでそんな紹介など不要だと言わんばかりに情報はそぎ落とされていく。それもそのはずです。彼の人生はただ福音の中で、イエスキリストとの関係の中においてのみ、その一点にかけて意味をなすのですから。

 

何のために生きているのかわからないと悩む方はおられます。悩みから立ち直れないとうずくまる方もいます。しかし、どんな人生であれ、主との関係においてのみ、あなたのやることは見えてきます。あなたがしていることの意味はわかってきます。逆から言うと主から離れた人生ならどれだけ成功しようと一切が無意味です。しかし、主との関係においてなら苦難にも意味はある。あなただってなれます。誰かにとってのイザヤにもマラキにも洗礼者ヨハネにも。