1月21日 マルコ1章5節―8節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「自分の限界、神の無限」

黒山のひとだかりという表現があります。大勢の人がぞくぞくと集まってくる。しかしそこが何もない荒野だとなると何事かと訝しくなります。その中心にいるのがヨハネです。皆、彼に用事があるのです。罪を告白したい。この人バプテスマを受けないといけない。そういう切実な思いが伝わってきます。時はローマ帝国の支配下。自分たちイスラエルは栄光ある神の民だと誇ったところで、現実は負け惜しみにしか聞こえない有様なのです。

 

そもそもが只事ではないのです。洗礼の起源は諸説ある。しかしここでの洗礼は異邦人の改宗者に施すものに近いのですから。神の民なら受ける必要はない。ユダヤならずとも誇りならどこの国にでも誰にでもありましょう。一方で後ろめたさもある。誰かに聞いて欲しい悩みも、苦しみも良心の呵責も責めも。誰かが悪いのだと思い込んできた。何かに責任を押し付けてきた。しかし、限界はある。悪いのは自分ではないのか。誇りなどもはや根拠はないのではないのか。わたしが本当に求めていることは神に赦して頂くことではないのか。

 

ヨハネの風貌は目立ちます。らくだの毛衣、腰には皮の帯。わが国なら修験者が、修行僧を思わせます。風変りなのです。旧約聖書の預言者エリヤが似た格好をしています。つまり彼はエリヤの衣鉢を継ぐ預言者たることを自覚しています。エリヤが荒野で神の声を聞いたように、彼も荒野を目指します。荒野とは伝統的に旧約聖書の昔から神の声を聞く場所なでした。何にも頼れない厳しさの中、ただ神の言葉によってのみ生かされる必要があるのです。

 

私たちは何も物理的な荒野を目指す必要はありません。そんな移動をせずとも荒涼とした人生の荒野を通されることは覚えが誰にでもあるのです。今まさに人生の荒野を味わっている方もおられるでしょう。誰にも頼れない。どこにも解決がない。限界に突き当たる。追い詰められた場でこそ響く神の言葉があります。聞いて下さい。耳を澄ませてください。あなたを生かすその言葉を。あなたがその言葉に生かされることで誰かを生かすのですから。

 

神の言葉を聞くのですから、軽く聞けるはずがない。圧倒されます。身じろぐのです。神と自分との間の差異に震え上がる。当時、靴の紐を解くのは奴隷の仕事でした。ヨハネはイエス様の前では自分は奴隷以下だと告白する。それはそうでしょう。主人と奴隷の関係であれしょせん、人間同士の関係に過ぎない。神の前で自己の限界の中に踏みとどまる。どんなミニストリーであれ、自分をひとかどの者であるかのように吹聴することは断たれるのです。

 

力のある主にしかできないことがある。それは聖霊によってバプテスマを授けること。これを特定の教理に結びつける向きもありますが、聖霊に浸すとは、マルコによれば福音と無関係ではないのです。人がイエスの力で生きること、イエスのように語ること、イエスの内実をもって歩むこと。聖霊にどっぷり浸されるとはそういうことなのです。全く全存在が変えられてしまう。聖霊信仰。そのリアリティなしには福音は机上の絵空事になってしまう。

 

神に心の向きを変えよとまでは自分にも言えます。神を紹介することまでならば。しかし、その先のことはイエス様の仕事です。この方だけが神の霊で満たして下さいます。その結果、神のことがわかるようになります。それだけではない。この方の力が、いのちが、私たちのうちにあふれ、働き始めます。いままでの生と決別できます。イエスのごとく。この方の愛と力で生きられる次元が聖霊によって開かれている。約束です。これこそが福音です!