1月28日 マルコ1章9節―11節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。 

 

「予想外の恵み」

いよいよ満を持してイエス様の初登場場面をマルコは描きます。ただし、かなり意外な形で。普通の小説家なら、主役の登場場面なら派手に印象づけるでしょう。しかしここでの情報は僅かです。ガリラヤのナザレから。たったこれだけです。誕生も家系も家族も生業も、子ども時代の話にも触れられない。エルサレムでもない地方出身者。当時としても無名の村。低く評価された辺境に身を埋めるようにして生きてきた。その情報だけで十分でした。

 

神はわたしの問題を解決して下さる方。もちろん、それも正しいでしょう。しかし、苦しみの中でつらいのは誰にも理解して頂けない寂寥感ではないでしょうか。だからこそ驚きなのです。神が自分なんかの仲間になって下さったことが。自分の苦悩のかたわらにおいで下さることが。天の高みからなんの感情の乱れもなく、ただ問題を解決するだけではない。人として同じ悩みを、同じ苦しみを生き抜いて下さった方が私たちの神である事実に。

 

実際、この方は受ける必要もない洗礼を人類を代表するように受けられます。その際、聖霊が下るのは、あたかも旧約聖書の時代に預言者が召し出される時、神の霊が注がれる場面を思い出します。聖霊とひとつになって、仕える僕として歩みだそうとする姿がここにはあります。彼が聖霊に促されてしようとする全てのことは自分の満足を満たすためではない。すべて人に徹底的に仕えるためなのです。それは十字架の死に至るまで。

 

天が裂けるという表現は、主が十字架におかかりになった時、神殿の幕が裂けたことを思わせます。この方において天と地はひとつにされるのです。神と人を隔てたものはなくなるのです。とは言え、人となられ、僕となられる神という理解は、当時の誰もが想像できないほど意外な姿でした。神の愛はいつも私たちの思いをはるかに超えているのです。そこまでなさるかと驚かされるほどにどこまでも低くなられる神。すべて私たちへの愛のゆえに。

 

神であるなら、こう働いて欲しい。注文をつけがちな私たち。思い通りにならないことに失望する自分がいます。いいえ、神の愛はいつも私たちの予想を裏切る形で確かに現れているのです。先入観が取り除かれるなら見えなかった愛が見えてくる。大きな愛を頂いた者として、もはや誰も偉そうには生きられない。虚栄にはとどまれない。身勝手ではおられない。聖霊に取り扱われ踏み出しましょうか。この方に倣い、しもべとして仕える道へと。

 

私たちも洗礼を受けました。なぜ受けるのか。端的に言うと主が洗礼をお受けになられたからです。主の洗礼なしの私たちの洗礼など無意味なのですから。水に沈み、浮かび上がった時、あなたにも神は声をかけて下さいました。あなたはわたしの愛する子だと。わたしの心にかなう者だと。人生がくじけそうになる時、何度もこの声を聞きたいのです。私は主に結ばれ、神に愛されている者なのだと。その確信を打ち消すものはどこにもないのですから。

 

私たちの不安定さは愛されている実感のなさから来ます。だからこそ何かを代替にして心を埋めようとする。それでは埋めようがない飢餓がある。しかし今ははっきりとわかる。わたしは神に愛されている存在だと確信に立てる。決定的な神の言を聞きます。誰かの否定的な言葉に傷つくなら。余計に、圧倒的なこの言葉だけを聞く。苦しい時、言い聞かせるのです。神の子である以上、わたしには使命があるのだと。この苦しみにも意味はあるのだと。