2月4日 マルコ1章12節、13節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「荒野にて」

大至急連絡下さいという案内をいただくと、ただごとではないはずです。ここでも大至急なのです。すぐにイエス様は行動します。そのうちやりますという後回しにしていいことではなかった。たまたま、そうなりましたという巡り合わせでもなかった。それはどうしても通らないといけない体験でした。荒野に向かうことは御霊の促しなのです。送り出したなどという生易しいものではない。追い出したとでも言うべき激しさ、荒々しさで、でした。

 

私たちも覚えがあります。洗礼を受けたばかりだと言うのに、なぜこんな荒野を通されるのか。信仰を持ちたてなのに、なぜ、こんなつらい思いを味わうのか。なぜこんな孤独に立たされるのか。信仰生活とはもっと楽しいはずのものではなかったのか。このような幻想が崩されるのです。孤独も時には必要です。過酷な環境にも意味はあります。そのギリギリのところでしか味わえない神への信頼があるのですから。大切なものは荒野で育まれます。

 

40日という数は象徴的です。申命記ではイスラエルは40年の間、荒野で試みを受け、誘惑に負けてしまうのですから。イエス様は違います。イスラエルがかつて勝てなかった試練に勝とうというのです。イスラエルに限らない。誰の人生にも、どんな歩みにも試練はやってきます。そして多くの人が試練に呑み込まれてしまう。しかし、主は人としてこの試練に打ち勝たれる。ならば勝利の主と無関係に私たちは試練にさらされるわけではないのです。

 

信仰的に生きようとする者にとってサタンの働きは、不気味でリアルな霊的現実です。御霊に導かれれば導かれるほど、サタンの働きとしか言いようのない圧迫を体験します。引きずり降ろそうとする闇の力が働きます。逆から言うなら、私たちが御霊に促されてすることが、いかに悪魔にとって脅威であり、おそれであるかということでもある。悪しき者の存在を通して、かえっていかに教会が主に愛され、魂の重みを知ることさえあるのです。

 

荒野とは獣のいる場です。いのちを奪う力のある野獣でしょう。危険なのです。しかし、危険が及ばないように見えない天使たちが主を支えています。神の守りとは安全なところでは理解されがたい。むしろ危険にさらされた時こそ、ああわたしは神に守られたと実感できるのです。あるいはこうも読めます。主は最後のアダムとしてこの何もない荒野に動物のたわむれる楽園を出現させたもうお方なのだと。