2月11日 マルコ1章14節、15節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「神の国」

誰かの第一声はとても大切です。その人の全生涯を物語る声にもなりうるのです。ここにはイエス様の第一声が響いています。どういう状況だったでしょうか。ヨハネが捕えられた後なのです。ヨハネの影響が無視できなくなった権力者がヨハネを捕まえた。その状況で主はガリラヤに行かれるのです。単にガリラヤから出てきて、ガリラヤに戻るという話ではありません。ここは権力者ヘロデの支配下にある危険極まりない場所なのですから。

 

私たちの信仰生活は必ず誰かの足跡を引き継ぐものなのです。ヨハネの働きを主が受け継ぐように。先人は必ずしもすべてをやり遂げられたわけではない。ある部分までは果たしてきた。しかし、残りの宿題は次の代が引き受けるのです。妥協をゆるさない。危険も覚悟の上と言うスピリットは遺伝子のように織り込まれています。教会はそうやって、世代から世代へとバトンを渡してきました。私たちもこの信仰を誰かに手渡していくのです。

 

時は満ちた。これが主の第一声です。そうは言ってもこれは好機が来たという意味に読んではいけません。風向きは明らかに悪いのです。状況が厳しくなる中、それでも決定的な神の時が来ていることを信仰の目でとらえる。これこそが霊的なセンスです。目に見える状況に左右されない。振り回されない。それだけを判断基準にしない。状況がよくなれば動き出すと言っては何も始まりません。いつだって不安材料はあるのですから。

 

神の国は近づいた。神の支配が近づいているということです。これは、ある面では、もう来たと言っているに等しいのです。ホームで電車を待っている人は電車が近づいてきたなら、電車が来たと言うではありませんか。新しい時が向こうから勝手に飛び込んでくるのです。イエスキリストにおいて新しい時がもう始まっているのです。今までの取り散らかしていた人生を、神が仕切りなおして下さる。整理して下さる。こういう時がもう来ています。

 

こういう決定的な時ですから、客観的にああ、そうですかと傍観しているわけにはいきません。私たちの態度を決める必要があるのです。福音を信じるか、信じないか。二つにひとつです。電車が近づいてきたなら、乗るか乗らないかどちらかを決めるはずです。からだ半分だけ乗りますなどと器用な真似はできません。乗ると言うなら、からだごと預けてしまうはずです。今まで自分の方向にばかり向いていた心を、神に向けなおすのです。

 

自分はもう福音を信じ、受け入れた。そういう人の上にもこのメッセージは響きます。なぜなら、この福音を受け入れた者には、この福音を証しする責任が与えられているからです。それこそ神の望むことだからです。ならば、この福音を語るか、語らないか。証しするか、しないか。態度を決めることがいつだって迫られています。自分だけ神の国に入り満足しているわけにはいかない。与えられた物は分かち合うのです。福音を待つ人がいるのですから。